り、それを注射器に吸い込ましたり、針を丁寧《ていねい》に拭《ぬぐ》ったり、針の先に泡のように細《こま》かい薬を吹かして眺めたりする注射の準備ははなはだ物奇麗《ものぎれい》で心持が好いけれども、その針を腕にぐさと刺して、そこへ無理に薬を注射するのは不愉快でたまらなかった。余は医師に全体その鳶色《とびいろ》の液は何だと聞いた。森成《もりなり》さんはブンベルンとかブンメルンとか答えて、遠慮なく余の腕を痛がらせた。
 やがて日に二回の注射が一回に減じた。その一回もまたしばらくすると廃《や》めになった。そうして葛湯の分量が少しずつ増して来た。同時に口の中が執拗《しゅうね》く粘《ねば》り始めた。爽《さわや》かな飲料で絶えず舌と顋《あご》と咽喉《のど》を洗っていなくてはいたたまれなかった。余は医師に氷を請求した。医師は固い片《かけ》らが滑《すべ》って胃の腑《ふ》に落ち込む危険を恐れた。余は天井《てんじょう》を眺めながら、腹膜炎を患《わず》らった廿歳《はたち》の昔を思い出した。その時は病気に障《さわ》るとかで、すべての飲物を禁ぜられていた。ただ冷水で含嗽《うがい》をするだけの自由を医師から得たので、余
前へ 次へ
全144ページ中110ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
夏目 漱石 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング