余はこの一瞥よりほかにまた子供の影を見なかった。余の眸はすぐと自然の角度に復した。けれども余はこの一瞥の短きうちにすべてを見た。
子供は三人いた。十二から十《とお》、十から八つと順に一列になって隣座敷の真中に並ばされていた。そうして三人ともに女であった。彼等は未来の健康のため、一夏《ひとなつ》を茅《ち》が崎《さき》に過すべく、父母《ふぼ》から命ぜられて、兄弟五人で昨日《きのう》まで海辺《うみべ》を駆《か》け廻っていたのである。父が危篤《きとく》の報知によって、親戚のものに伴《つ》れられて、わざわざ砂深い小松原を引き上げて、修善寺《しゅぜんじ》まで見舞に来たのである。
けれども危篤の何を意味しているかを知るには彼らはあまり小《ち》さ過《す》ぎた。彼らは死と云う名前を覚えていた。けれども死の恐ろしさと怖《こわ》さとは、彼らの若い額《ひたい》の奥に、いまだかつて影さえ宿さなかった。死に捕《とら》えられた父の身体が、これからどう変化するか彼らには想像ができなかった。父が死んだあとで自分らの運命にどんな結果が来るか、彼らには無論考え得られなかった。彼らはただ人に伴われて父の病気を見舞うべく、
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