はなかった。好《す》き嫌《きら》いと云ったところで、構図の上に自分の気に入った天然の色と形が表われていればそれで嬉《うれ》しかったのである。
 鑑識上の修養を積む機会をもたなかった余の趣味は、その後別段に新らしい変化を受けないで生長した。したがって山水によって画を愛するの弊《へい》はあったろうが、名前によって画を論ずるの譏《そし》りも犯《おか》さずにすんだ。ちょうど画を前後して余の嗜好《しこう》に上《のぼ》った詩と同じく、いかな大家の筆になったものでも、いかに時代を食ったものでも、自分の気に入らないものはいっこう顧みる義理を感じなかった。(余は漢詩の内容を三分して、いたくその一分を愛すると共に、大いに他の一分をけなしている。残る三分の一に対しては、好むべきか悪《にく》むべきかいずれとも意見を有していない。)
 ある時、青くて丸い山を向うに控えた、また的※[#「白+轢のつくり」、第3水準1−88−69]《てきれき》と春に照る梅を庭に植えた、また柴門《さいもん》の真前《まんまえ》を流れる小河を、垣に沿うて緩《ゆる》く繞《めぐ》らした、家を見て――無論|画絹《えぎぬ》の上に――どうか生涯《し
前へ 次へ
全144ページ中102ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
夏目 漱石 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング