《は》りつけた壁の色が、暗く映る灯《ひ》の陰に、ふと余の視線を惹《ひ》いた。余は湯壺《ゆつぼ》の傍《わき》に立ちながら、身体《からだ》を濡《し》めす前に、まずこの異様の広告めいたものを読む気になった。真中に素人《しろうと》落語大会と書いて、その下に催主《さいしゅ》裸連《はだかれん》と記してある。場所は「山荘にて」と断って、催《もよお》しのあるべき日取をその傍に書き添えた。余はすぐ裸連の何人《なんびと》なるかを覚《さと》り得た。裸連とは余の隣座敷にいる泊り客の自撰にかかる異名《いみょう》である。昨日《きのう》の午《ひる》襖越《ふすまごし》に聞いていると、太郎冠者《たろうかじゃ》がどうのこうのと長い評議の末、そこんところでやるまいぞ、やるまいぞにしたら好いじゃねえかと云うような相談があった。その趣向《しゅこう》は寝ている余とは固《もと》より無関係だから、知ろうはずもなかったが、とにかくこの議決が山荘での催《もよお》しに一異彩を加えた事はたしかに違ないと思った。余は風呂場の貼紙《はりがみ》に注意してある日付と、裸連《はだかれん》の趣向を凝《こ》らしていた時刻を照らし合せつつ、この落語会なるものの、すでに滞《とどこお》りなくすんだ昨日の午後を顧みて、裸連――少くとも裸連の首脳の構成《かたちづく》る隣座敷の泊り客……の成功を祝せざるを得なかった。
 この泊り客は五人連《ごにんづれ》で一間《ひとま》に這入《はい》っていた。その中《うち》の一番|年嵩《としかさ》に見える三十代の男に、その妻君と娘を合せるとすでに三人になる。妻君は品《ひん》のいい静かな女であった。子供はなおさらおとなしかった。その代り夫はすこぶる騒々しかった。あとの二人はいずれも二十代の青年で、その一人は一行のうちでもっともやかましくふるまっていた。
 誰でも中年以後になって、二十一二時代の自分を眼の前に憶《おも》い浮べて見ると、いろいろ回想の簇《むら》がる中に、気恥《きはず》かしくて冷汗の流れそうな一断面を見出すものである。余は隣の室《へや》に呻吟《しんぎん》しながら、この若い男の言葉使いや起居《たちい》を注意すべく余儀なくされた結果として、二十年の昔に経過した、自分の生涯《しょうがい》のうちで、はなはだ不面目と思わざるを得ない生意気さ加減を今更のように恐れた。
 この男は何の必要があってか知らないけれども、絶え
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