思い出す事など
夏目漱石
−−
【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)朝夕《あさゆう》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)釣台に野菊も見えぬ桐油|哉《かな》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「口+荅」、第4水準2−4−16]
−−
一
ようやくの事でまた病院まで帰って来た。思い出すとここで暑い朝夕《あさゆう》を送ったのももう三カ月の昔になる。その頃《ころ》は二階の廂《ひさし》から六尺に余るほどの長い葭簀《よしず》を日除《ひよけ》に差し出して、熱《ほて》りの強い縁側《えんがわ》を幾分《いくぶん》か暗くしてあった。その縁側に是公《ぜこう》から貰った楓《かえで》の盆栽《ぼんさい》と、時々人の見舞に持って来てくれる草花などを置いて、退屈も凌《しの》ぎ暑さも紛《まぎ》らしていた。向《むこう》に見える高い宿屋の物干《ものほし》に真裸《まっぱだか》の男が二人出て、日盛《ひざかり》を事ともせず、欄干《らんかん》の上を危《あぶ》なく渡ったり、または細長い横木の上にわざと仰向《あおむけ》に寝たりして、ふざけまわる様子を見て自分もいつか一度はもう一遍あんな逞《たくま》しい体格になって見たいと羨《うらや》んだ事もあった。今はすべてが過去に化してしまった。再び眼の前に現れぬと云う不慥《ふたしか》な点において、夢と同じくはかない過去である。
病院を出る時の余は医師の勧めに従って転地する覚悟はあった。けれども、転地先で再度の病《やまい》に罹《かか》って、寝たまま東京へ戻って来《こ》ようとは思わなかった。東京へ戻ってもすぐ自分の家の門は潜《くぐ》らずに釣台《つりだい》に乗ったまま、また当時の病院に落ちつく運命になろうとはなおさら思いがけなかった。
帰る日は立つ修善寺《しゅぜんじ》も雨、着く東京も雨であった。扶《たす》けられて汽車を下りるときわざわざ出迎えてくれた人の顔は半分も眼に入《い》らなかった。目礼《もくれい》をする事のできたのはその中《うち》の二三に過ぎなかった。思うほどの会釈《えしゃく》もならないうちに余は早く釣台の上に横《よこた》えられていた。黄昏《たそがれ》の雨を防ぐために釣台には桐油《とうゆ》を掛けた。余は坑
次へ
全72ページ中1ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
夏目 漱石 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング