《あな》の底に寝かされたような心持で、時々暗い中で眼を開《あ》いた。鼻には桐油の臭がした。耳には桐油を撲《う》つ雨の音と、釣台に付添うて来るらしい人の声が微《かす》かながらとぎれとぎれに聞えた。けれども眼には何物も映らなかった。汽車の中で森成《もりなり》さんが枕元《まくらもと》の信玄袋《しんげんぶくろ》の口に挿《さ》し込んでくれた大きな野菊の枝は、降りる混雑の際に折れてしまったろう。
釣台に野菊も見えぬ桐油|哉《かな》
これはその時の光景を後から十七字にちぢめたものである。余はこの釣台に乗ったまま病院の二階へ舁《か》き上《あ》げられて、三カ月|前《ぜん》に親しんだ白いベッドの上に、安らかに瘠《や》せた手足を延べた。雨の音の多い静かな夜であった。余の病室のある棟《むね》には患者が三四名しかいないので、人声も自然絶え勝に、秋は修善寺よりもかえってひっそりしていた。
この静かな宵《よい》を心地《ここち》よく白い毛布の中に二時間ほど送った時、余は看護婦から二通の電報を受取った。一通を開けて見ると「無事御帰京を祝す」と書いてあった。そうしてその差出人は満洲にいる中村是公《なかむらぜこう》であった。他の一通を開けて見ると、やはり無事御帰京を祝すと云う文句で、前のと一字の相違もなかった。余は平凡ながらこの暗合《あんごう》を面白く眺めつつ、誰が打ってくれたのだろうと考えて差出人の名前を見た。ところがステトとあるばかりでいっこうに要領を得なかった。ただかけた局が名古屋とあるのでようやく判断がついた。ステトと云うのは、鈴木禎次《すずきていじ》と鈴木時子《すずきときこ》の頭文字《かしらもじ》を組み合わしたもので、妻《さい》の妹《いもと》とその夫《おっと》の事であった。余は二ツの電報を折り重ねて、明朝《あす》また来《きた》るべき妻の顔を見たら、まずこの話をしようかと思い定めた。
病室は畳も青かった。襖《ふすま》も張《は》り易《か》えてあった。壁も新《あらた》に塗ったばかりであった。万《よろず》居心よく整っていた。杉本副院長が再度修善寺へ診察に来た時、畳替《たたみがえ》をして待っていますと妻に云い置かれた言葉をすぐに思い出したほど奇麗《きれい》である。その約束の日から指を折って勘定《かんじょう》して見ると、すでに十六七日目になる。青い畳もだいぶ久しく人を待ったらしい。
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