つ余の心を躍《おど》らしたのは、草平君に関する報知《しらせ》であった。妻《さい》が本郷の親類で用を足した帰りとかに、水見舞のつもりで柳町《やなぎちょう》の低い町から草平君の住んでいる通りまで来て、ここらだがと思いながら、表から奥を覗《のぞ》いて見ると、かねて見覚《みおぼえ》のある家がくしゃりと潰《つぶ》れていたそうである。
「家《うち》の人達は無事ですか、どこへ行きましたかと聞いたら、薪屋《まきや》の御上《おかみ》さんが、昨晩の十二時頃に崖《がけ》が崩《くず》れましたが、幸いにどなたも御怪我《おけが》はございません。ひとまず柳町のこういう所へ御引移りになりましたと、教えてくれましたから、柳町へ来て見ると、まだ水の引き切らない床下《ゆかした》のぴたぴたに濡《ぬ》れた貸家に畳建具《たたみたてぐ》も何も入れずに、荷物だけ運んでありました。実に何と云って好いか憐《あわ》れな姿でお種《たね》さんが、私《わたし》の顔を見ると馳《か》け出して来ました。……晩の御飯を拵《こしら》える事もできないだろうと思って、御寿司《おすし》を誂《あつら》えて御夕飯の代りに上げました……」
草平君は平生《ふだん》から崖崩れを恐れて、できるだけ表へ寄って寝るとか聞いていたが、家の潰《つぶ》れた時には、外《ほか》のものがまるで無難であったにもかかわらず、自分だけは少し顔へ怪我《けが》をしたそうである。その怪我の事も手紙の中《うち》に書いてあった。余はそれを読んで怪我だけでまず仕合せだと思った。
家を流し崖を崩す凄《すさ》まじい雨と水の中に都のものは幾万となく恐るべき叫び声を揚《あ》げた。同じ雨と同じ水の中に余と関係の深い二人は身をもって免《まぬか》れた。そうして余は毫《ごう》も二人の災難を知らずに、遠い温泉《でゆ》の村に雲と煙《けぶり》と、雨の糸を眺め暮していた。そうして二人の安全であるという報知《しらせ》が着いたときは、余の病《やまい》がしだいしだいに危険の方へ進んで行った時であった。
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風に聞け何《いず》れか先に散る木《こ》の葉《は》
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十二
つづく雨の或《あ》る宵《よい》に、すこし病《やまい》の閑《ひま》を偸《ぬす》んで、下の風呂場へ降りて見ると、半切《はんきれ》を三尺ばかりの長《ながさ》に切って、それを細長く竪《たて》に貼
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