不拒庸人骨[#「青山不拒庸人骨」に白丸傍点]。 回首九原月在天[#「回首九原月在天」に白丸傍点]。
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九
忘るべからざる二十四日の出来事を書こうと思って、原稿紙に向いかけると、何だか急に気が進まなくなったのでまた記憶を逆《さかさ》まに向け直して、後戻《あともど》りをした。
東京を立つときから余は劇《はげ》しく咽喉を痛めていた。いっしょに来るべきはずでつい乗り後《おく》れた東洋城《とうようじょう》の電報を汽車中で受け取って、その意のごとくに御殿場《ごてんば》で一時間ほど待ち合せていた間《ま》に、余は不用になった一枚の切符代を割り戻して貰うために、駅長室へ這入《はい》って行った。するとそこに腰囲何尺《よういなんじゃく》とでも形容すべきほど大きな西洋人が、椅子《いす》に腰をかけてしきりに絵端書《えはがき》の表に何か認《したた》めていた。余は駅長に向って当用を弁ずる傍《かたわら》、思いがけない所に思いがけない人がいるものだという好奇心を禁じ得なかった。するとその大男が突然立ち上がって、あなたは英語を話すかと聞くから、嗄《か》れた声でわずかにイエスと答えた。男は次にこれから京都へ行くにはどの汽車へ乗ったら好いか教えてくれと云った。はなはだ簡単な用向《ようむき》であるから平生ならばどうとも挨拶《あいさつ》ができるのだけれども、声量を全く失っていた当時の余には、それが非常の困難であった。固《もと》より云う事はあるのだから、何か云おうとするのだが、その云おうとする言葉が咽喉《のど》を通るとき千条《ちすじ》に擦《す》り切《き》れでもするごとくに、口へ出て来る時分には全く光沢《つや》を失ってほとんど用をなさなかった。余は英語に通ずる駅員の助《たすけ》を藉《か》りて、ようやくのことこの大男を無事に京都へ送り届けた事とは思うが、その時の不愉快はいまだに忘れない。
修善寺《しゅぜんじ》に着いてからも咽喉《のど》はいっこう好くならなかった。医者から薬を貰ったり、東洋城の拵《こしら》えてくれた手製の含漱《がんそう》を用いたりなどして、辛《から》く日常の用を弁ずるだけの言葉を使ってすましていた。その頃修善寺には北白川《きたしらかわ》の宮《みや》がおいでになっていた。東洋城は始終《しじゅう》そちらの方の務《つとめ》に追われて、つい一丁ほどしか隔ってい
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