余はすでに病んでいた。縁側《えんがわ》を絶えず通る湯治客に、吾姿を見せるのが苦《く》になって、蒸《む》し暑い時ですら障子《しょうじ》は常に閉《た》て切っていた。三度三度|献立《こんだて》を持って誂《あつらえ》を聞きにくる婆さんに、二品《ふたしな》三品《みしな》口に合いそうなものを注文はしても、膳《ぜん》の上に揃《そろ》った皿を眺めると共に、どこからともなく反感が起って、箸《はし》を執《と》る気にはまるでなれなかった。そのうちに嘔気《はきけ》が来た。
 始めは煎薬《せんやく》に似た黄黒《きぐろ》い水をしたたかに吐いた。吐いた後《あと》は多少気分が癒《なお》るので、いささかの物は咽喉《のど》を越した。しかし越した嬉《うれ》しさがまだ消えないうちに、またそのいささかの胃の滞《とどこ》うる重き苦しみに堪《た》え切れなくなって来た。そうしてまた吐いた。吐くものは大概水である。その色がだんだん変って、しまいには緑青《ろくしょう》のような美くしい液体になった。しかも一粒《いちりゅう》の飯さえあえて胃に送り得ぬ恐怖と用心の下《もと》に、卒然として容赦なく食道を逆《さか》さまに流れ出た。
 青いものがまた色を変えた。始めて熊《くま》の胆《い》を水に溶き込んだように黒ずんだ濃い汁を、金盥《かなだらい》になみなみと反《もど》した時、医者は眉《まゆ》を寄せて、こういうものが出るようでは、今のうち安静にして東京に帰った方が好かろうと注告した。余は金盥の中を指《ゆびさ》していったい何が出るのかと質問した。医者は興《きょう》のない顔つきで、これは血だと答えた。けれども余の眼にはこの黒いものが血とは思えなかった。するとまた吐いた。その時は熊の胆の色が少し紅《くれない》を含んで、咽喉を出る時|腥《なまぐさ》い臭《かおり》がぷんと鼻を衝《つ》いたので、余は胸を抑えながら自分で血だ血だと云った。玄耳君《げんじくん》が驚ろいて森成《もりなり》さんに坂元《さかもと》君を添えてわざわざ修善寺《しゅぜんじ》まで寄こしてくれたのは、この報知が長距離電話で胃腸病院へ伝《つたわ》って、そこからまた直《すぐ》に社へ通じたからである。別館から馳《か》けて来た東洋城《とうようじょう》が枕辺《まくらべ》に立って、今日東京から医者と社員が来るはずになったと知らしてくれた時は全く救われたような気がした。
 この時の余はほとんど人
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