ガス》のかからぬごとくに、吾らの世界もまた冷却し尽くすならば、吾らはことごとく死んでしまわねばならない。今の余のように生き延びた自分を祝い、遠く逝《ゆ》く他人を悲しみ、友を懐《なつか》しみ敵を悪《にく》んで、内輪だけの活計《かっけい》に甘んじて得意にその日を渡る訳には行くまい。
進んで無機有機を通じ、動植両界を貫《つらぬ》き、それらを万里一条の鉄のごとくに隙間《すきま》なく発展して来た進化の歴史と見傚《みな》すとき、そうして吾ら人類がこの大歴史中の単なる一|頁《ページ》を埋《うず》むべき材料に過ぎぬ事を自覚するとき、百尺竿頭《ひゃくせきかんとう》に上《のぼ》りつめたと自任する人間の自惚《うぬぼれ》はまた急に脱落しなければならない。支那人が世界の地図を開いて、自分のいる所だけが中華でないと云う事を発見した時よりも、無気味な黒船が来て日本だけが神国でないという事を覚った時よりも、さらに溯《さかのぼ》っては天動説が打ち壊されて、地球が宇宙の中心でなかった事を無理に合点《がてん》せしめられた時よりも、進化論を知り、星雲説を想像する現代の吾らは辛《から》きジスイリュージョンを甞《な》めている。
種類保存のためには個々の滅亡を意とせぬのが進化論の原則である。学者の例証するところによると、一|疋《ぴき》の大口魚《たら》が毎年生む子の数は百万疋とか聞く。牡蠣《かき》になるとそれが二百万の倍数に上《のぼ》るという。そのうちで生長するのはわずか数匹《すひき》に過ぎないのだから、自然は経済的に非常な濫費者《らんぴしゃ》であり、徳義上には恐るべく残酷な父母《ふぼ》である。人間の生死も人間を本位とする吾らから云えば大事件に相違ないが、しばらく立場を易《か》えて、自己が自然になり済ました気分で観察したら、ただ至当《しとう》の成行で、そこに喜びそこに悲しむ理窟《りくつ》は毫《ごう》も存在していないだろう。
こう考えた時、余ははなはだ心細くなった。またはなはだつまらなくなった。そこでことさらに気分を易えて、この間|大磯《おおいそ》で亡《な》くなった大塚夫人の事を思い出しながら、夫人のために手向《たむけ》の句を作った。
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有る程の菊|抛《な》げ入れよ棺《かん》の中
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八
忘るべからざる八月二十四日の来《きた》る二週間ほど前から
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