と居宅の持主たるべき資格をまた奇麗《きれい》に失ってしまった。傍《はた》のものは若くなった若くなったと云ってしきりに囃《はや》し立てた。独《ひと》り妻だけはおやすっかり剃《す》っておしまいになったんですかと云って、少し残り惜しそうな顔をした。妻は夫の病気が本復した上にも、なお地面と居宅が欲しかったのである。余といえども、髯を落さなければ地面と居宅がきっと手に入《い》ると保証されるならば、あの顋はそのままに保存しておいたはずである。
 その後《ご》髯は始終剃った。朝早く床の上に起き直って、向うの三階の屋根と吾室《わがへや》の障子《しょうじ》の間にわずかばかり見える山の頂《いただき》を眺めるたびに、わが頬の潔《いさぎ》よく剃り落してある滑《なめ》らかさを撫《な》で廻しては嬉《うれ》しがった。地面と居宅は当分断念したか、または老後の楽しみにあとあとまで取っておくつもりだったと見える。
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客夢回時一鳥鳴[#「客夢回時一鳥鳴」に白丸傍点]。 夜来山雨暁来晴[#「夜来山雨暁来晴」に白丸傍点]。
孤峯頂上孤松色[#「孤峯頂上孤松色」に白丸傍点]。 早映紅暾欝々明[#「早映紅暾欝々明」に白丸傍点]。
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        二十九

 修善寺《しゅぜんじ》が村の名で兼《かね》て寺の名であると云う事は、行かぬ前から疾《とく》に承知していた。しかしその寺で鐘の代りに太鼓を叩《たた》こうとはかつて想《おも》い至らなかった。それを始めて聞いたのはいつの頃であったか全く忘れてしまった。ただ今でも余が鼓膜の上に、想像の太鼓がどん――どんと時々響く事がある。すると余は必ず去年の病気を憶《おも》い出す。
 余は去年の病気と共に、新らしい天井《てんじょう》と、新らしい床《とこ》の間《ま》にかけた大島将軍の従軍の詩を憶い出す。そうしてその詩を朝から晩までに何遍となく読み返した当時を明らさまに憶い出す。新らしい天井と、新らしい床の間と、新らしい柱と、新らし過ぎて開閉《あけたて》の不自由な障子《しょうじ》は、今でも眼の前にありありと浮べる事ができるが、朝から晩までに何遍となく読み返した大島将軍の詩は、読んでは忘れ、読んでは忘れして、今では白壁《しらかべ》のように白い絹の上を、どこまでも同じ幅で走って、尾頭《おかしら》ともにぷつりと折れてしまう黒い線を認めるだけであ
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