る。句に至っては、始めの剣戟《けんげき》という二字よりほか憶い出せない。
 余は余の鼓膜《こまく》の上に、想像の太鼓がどん――どんと響くたびに、すべてこれらのものを憶い出す。これらのものの中に、じっと仰向《あおむ》いて、尻の痛さを紛《まぎ》らしつつ、のつそつ夜明を待ち佗《わ》びたその当時を回顧すると、修禅寺《しゅぜんじ》の太鼓の音《ね》は、一種云うべからざる連想をもって、いつでも余の耳の底に卒然と鳴り渡る。
 その太鼓は最も無風流な最も殺風景な音を出して、前後を切り捨てた上、中間だけを、自暴《やけ》に夜陰に向って擲《たた》きつけるように、ぶっきら棒な鳴り方をした。そうして、一つどんと素気《そっけ》なく鳴ると共にぱたりと留った。余は耳を峙《そば》だてた。一度静まった夜の空気は容易に動こうとはしなかった。やや久《しば》らくして、今のは錯覚ではなかろうかと思い直す頃に、また一つどんと鳴った。そうして愛想《あいそ》のない音は、水に落ちた石のように、急に夜の中に消えたぎり、しんとした表に何の活動も伝えなかった。寝られない余は、待ち伏せをする兵士のごとく次の音《ね》の至るを思いつめて待った。その次の音はやはり容易には来なかった。ようやくのこと第一第二と同じく極《きわ》めて乾《から》び切《き》った響が――響とは云《い》い悪《にく》い。黒い空気の中に、突然無遠慮な点をどっと打って直《すぐ》筆を隠したような音が、余の耳朶《じだ》を叩《たた》いて去る後《あと》で、余はつくづくと夜を長いものに観じた。
 もっとも夜は長くなる頃であった。暑さもしだいに過ぎて、雨の降る日はセルに羽織を重ねるか、思い切って朝から袷《あわせ》を着るかしなければ、肌寒《はださむ》を防ぐ便《たより》とならなかった時節である。山の端に落ち込む日は、常の短かい日よりもなおの事短かく昼を端折《はしお》って、灯《ひ》は容易に点《つ》いた。そうして夜《よ》は中々明けなかった。余はじりじりと昼に食い入る夜長を夜ごとに恐れた。眼が開《あ》くときっと夜であった。これから何時間ぐらいこうしてしんと夜の中に生きながら埋《うず》もっている事かと思うと、我ながらわが病気に堪《た》えられなかった。新らしい天井と、新らしい柱と、新らしい障子を見つめるに堪えなかった。真白な絹に書いた大きな字の懸物《かけもの》には最も堪えなかった。ああ早く夜が明
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