の御土産《おみやげ》を届けてやるからと書いて、すぐ郵便で妻《さい》に出さした。子供は余が東京へ帰ってからも、平気で遊んでいる。修善寺の土産《みやげ》はもう壊してしまったろう。彼等が大きくなったとき父のこの文を読む機会がもしあったなら、彼等ははたしてどんな感じがするだろう。
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傷心秋已到[#「傷心秋已到」に白丸傍点]。 嘔血骨猶存[#「嘔血骨猶存」に白丸傍点]。
病起期何日[#「病起期何日」に白丸傍点]。 夕陽還一村[#「夕陽還一村」に白丸傍点]。
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        二十六

 五十グラムと云うと日本の二勺半にしか当らない。ただそれだけの飲料で、この身体《からだ》を終日|持《も》ち応《こた》えていたかと思えば、自分ながら気の毒でもあるし、可愛《かわい》らしくもある。また馬鹿らしくもある。
 余は五十グラムの葛湯《くずゆ》を恭《うやう》やしく飲んだ。そうして左右の腕に朝夕《あさゆう》二回ずつの注射を受けた。腕は両方とも針の痕《あと》で埋《う》まっていた。医師は余に今日はどっちの腕にするかと聞いた。余はどっちにもしたくなかった。薬液を皿に溶いたり、それを注射器に吸い込ましたり、針を丁寧《ていねい》に拭《ぬぐ》ったり、針の先に泡のように細《こま》かい薬を吹かして眺めたりする注射の準備ははなはだ物奇麗《ものぎれい》で心持が好いけれども、その針を腕にぐさと刺して、そこへ無理に薬を注射するのは不愉快でたまらなかった。余は医師に全体その鳶色《とびいろ》の液は何だと聞いた。森成《もりなり》さんはブンベルンとかブンメルンとか答えて、遠慮なく余の腕を痛がらせた。
 やがて日に二回の注射が一回に減じた。その一回もまたしばらくすると廃《や》めになった。そうして葛湯の分量が少しずつ増して来た。同時に口の中が執拗《しゅうね》く粘《ねば》り始めた。爽《さわや》かな飲料で絶えず舌と顋《あご》と咽喉《のど》を洗っていなくてはいたたまれなかった。余は医師に氷を請求した。医師は固い片《かけ》らが滑《すべ》って胃の腑《ふ》に落ち込む危険を恐れた。余は天井《てんじょう》を眺めながら、腹膜炎を患《わず》らった廿歳《はたち》の昔を思い出した。その時は病気に障《さわ》るとかで、すべての飲物を禁ぜられていた。ただ冷水で含嗽《うがい》をするだけの自由を医師から得たので、余
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