下宿へ帰って飯が食いたくなった。先生もみんなの心を察して、いいかげんに講義を切り上げてくれた。三四郎は早足で追分《おいわけ》まで帰ってくる。
 着物を脱ぎ換えて膳《ぜん》に向かうと、膳の上に、茶碗蒸《ちゃわんむし》といっしょに手紙が一本載せてある。その上封《うわふう》を見たとき、三四郎はすぐ母から来たものだと悟った。すまんことだがこの半月あまり母の事はまるで忘れていた。きのうからきょうへかけては時代錯誤《アナクロニズム》だの、不二山の人格だの、神秘的な講義だので、例の女の影もいっこう頭の中へ出てこなかった。三四郎はそれで満足である。母の手紙はあとでゆっくり見ることとして、とりあえず食事を済まして、煙草を吹かした。その煙を見るとさっきの講義を思い出す。
 そこへ与次郎がふらりと現われた。どうして学校を休んだかと聞くと、貸家捜しで学校どころじゃないそうである。
「そんなに急いで越すのか」と三四郎が聞くと、
「急ぐって先月中に越すはずのところをあさっての天長節まで待たしたんだから、どうしたってあしたじゅうに捜さなければならない。どこか心当りはないか」と言う。
 こんなに忙しがるくせに、きのう
前へ 次へ
全364ページ中99ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
夏目 漱石 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング