が、やがて静まった。
 三四郎には三つの世界ができた。一つは遠くにある。与次郎のいわゆる明治十五年以前の香《か》がする。すべてが平穏である代りにすべてが寝ぼけている。もっとも帰るに世話はいらない。もどろうとすれば、すぐにもどれる。ただいざとならない以上はもどる気がしない。いわば立退場《たちのきば》のようなものである。三四郎は脱ぎ棄てた過去を、この立退場の中へ封じ込めた。なつかしい母さえここに葬ったかと思うと、急にもったいなくなる。そこで手紙が来た時だけは、しばらくこの世界に※[#「彳+低のつくり」、第3水準1−84−31]徊《ていかい》して旧歓をあたためる。
 第二の世界のうちには、苔《こけ》のはえた煉瓦造りがある。片すみから片すみを見渡すと、向こうの人の顔がよくわからないほどに広い閲覧室がある。梯子《はしご》をかけなければ、手の届きかねるまで高く積み重ねた書物がある。手ずれ、指の垢《あか》で、黒くなっている。金文字で光っている。羊皮、牛皮、二百年前の紙、それからすべての上に積もった塵《ちり》がある。この塵は二、三十年かかってようやく積もった尊い塵である。静かな明日に打ち勝つほどの静か
前へ 次へ
全364ページ中107ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
夏目 漱石 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング