聞えぬだろう。耳は聞えなくなっても、誰か来て墓参りをしてくれるだろう。そうして白い小さい菊でもあげてくれるだろう。寂光院は閑静な所だ」とある。その次に「強い風だ。いよいよこれから死にに行く。丸《たま》に中《あた》って仆《たお》れるまで旗を振って進むつもりだ。御母《おっか》さんは、寒いだろう」日記はここで、ぶつりと切れている。切れているはずだ。
余はぞっとして日記を閉じたが、いよいよあの女の事が気に懸《かか》ってたまらない。あの車は白山の方へ向いて馳《か》けて行ったから、何でも白山方面のものに相違ない。白山方面とすれば本郷の郵便局へ来んとも限らん。しかし白山だって広い。名前も分らんものを探《たず》ねて歩いたって、そう急に知れる訳がない。とにかく今夜の間に合うような簡略な問題ではない。仕方がないから晩食《ばんめし》を済ましてその晩はそれぎり寝る事にした。実は書物を読んでも何が書いてあるか茫々《ぼうぼう》として海に対するような感があるから、やむをえず床へ這入《はい》ったのだが、さて夜具の中でも思う通りにはならんもので、終夜安眠が出来なかった。
翌日学校へ出て平常の通り講義はしたが、例の事
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