件が気になっていつものように授業に身が入《い》らない。控所へ来ても他の職員と話しをする気にならん。学校の退《ひ》けるのを待ちかねて、その足で寂光院へ来て見たが、女の姿は見えない。昨日《きのう》の菊が鮮やかに竹藪《たけやぶ》の緑に映じて雪の団子《だんご》のように見えるばかりだ。それから白山から原町、林町の辺《へん》をぐるぐる廻って歩いたがやはり何らの手懸《てがか》りもない。その晩は疲労のため寝る事だけはよく寝た。しかし朝になって授業が面白く出来ないのは昨日と変る事はなかった。三日目に教員の一人を捕《つら》まえて君白山方面に美人がいるかなと尋ねて見たら、うむ沢山いる、あっちへ引越したまえと云った。帰りがけに学生の一人に追いついて君は白山の方にいるかと聞いたら、いいえ森川町ですと答えた。こんな馬鹿な騒ぎ方をしていたって始まる訳のものではない。やはり平生のごとく落ちついて、緩《ゆ》るりと探究するに若《し》くなしと決心を定めた。それでその晩は煩悶《はんもん》焦慮もせず、例の通り静かに書斎に入って、せんだって中《じゅう》からの取調物を引き続いてやる事にした。
 近頃余の調べている事項は遺伝と云う大
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