はここだ。何でも構わんから追い懸けろと、下駄の歯をそちらに向けたが、徒歩で車のあとを追い懸けるのは余り下品すぎる。気狂《きちがい》でなくってはそんな馬鹿な事をするものはない。車、車、車はおらんかなと四方を見廻したが生憎《あいにく》一輌もおらん。そのうちに寂光院は姿も見えないくらい遥《はる》かあなたに馳け抜ける。もう駄目だ。気狂と思われるまで下品にならなければ世の中は成功せんものかなと惘然《ぼうぜん》として西片町へ帰って来た。
とりあえず、書斎に立て籠《こも》って懐中から例の手帳を出したが、何分|夕景《ゆうけい》ではっきりせん。実は途上でもあちこちと拾い読みに読んで来たのだが、鉛筆でなぐりがきに書いたものだから明るい所でも容易に分らない。ランプを点《つ》ける。下女が御飯はと云って来たから、めしは後《あと》で食うと追い返す。さて一|頁《ページ》から順々に見て行くと皆陣中の出来事のみである。しかも倥偬《こうそう》の際に分陰《ふんいん》を偸《ぬす》んで記しつけたものと見えて大概の事は一句二句で弁じている。「風、坑道内にて食事。握り飯二個。泥まぶれ」と云うのがある。「夜来|風邪《ふうじゃ》の気
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