ならん。それにしても昨日《きのう》あの女のあとを付けなかったのは残念だ。もし向後《こうご》あの女に逢う事が出来ないとするとこの事件は判然《はんぜん》と分りそうにもない。入《い》らぬ遠慮をして流星光底《りゅうせいこうてい》じゃないが逃がしたのは惜しい事だ。元来品位を重んじ過ぎたり、あまり高尚にすると、得《え》てこんな事になるものだ。人間はどこかに泥棒的分子がないと成功はしない。紳士も結構には相違ないが、紳士の体面を傷《きずつ》けざる範囲内において泥棒根性を発揮せんとせっかくの紳士が紳士として通用しなくなる。泥棒気のない純粋の紳士は大抵行き倒れになるそうだ。よしこれからはもう少し下品になってやろう。とくだらぬ事を考えながら柳町の橋の上まで来ると、水道橋の方から一|輌《りょう》の人力車が勇ましく白山《はくさん》の方へ馳《か》け抜ける。車が自分の前を通り過ぎる時間は何秒と云うわずかの間《あいだ》であるから、余が冥想《めいそう》の眼をふとあげて車の上を見た時は、乗っている客はすでに眼界から消えかかっていた。がその人の顔は? ああ寂光院だと気が着いた頃はもう五六間先へ行っている。ここだ下品になるの
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