十雀《しじゅうから》はすでにどこかへ飛び去って、例の白菊の色が、水気《みずけ》を含んだ黒土に映じて見事に見える。その時ふと思い出したのは先日の日記の事である。御母さんも知らず、余も知らぬ、あの女の事があるいは書いてあるかも知れぬ。よしあからさまに記してなくても一応目を通したら何か手懸《てがか》りがあろう。御母さんは女の事だから理解出来んかも知れんが、余が見ればこうだろうくらいの見当はつくわけだ。これは催促《さいそく》して日記を見るに若《し》くはない。
「あの先日御話しの日記ですね。あの中に何かかいてはありませんか」
「ええ、あれを見ないうちは何とも思わなかったのですが、つい見たものですから……」と御母さんは急に涙声になる。また泣かした。これだから困る。困りはしたものの、何か書いてある事はたしかだ。こうなっては泣こうが泣くまいがそんな事は構っておられん。
「日記に何か書いてありますか? それは是非拝見しましょう」と勢よく云ったのは今から考えて赤面の次第である。御母さんは起《た》って奥へ這入《はい》る。
やがて襖《ふすま》をあけてポッケット入れの手帳を持って出てくる。表紙は茶の革《かわ》
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