たが、滅多《めった》な抗議を申し込むとまた気色《きしょく》を悪《わ》るくさせる危険がある。せっかく慰めに来ていつも失策をやるのは余り器量のない話だ。まあまあだまっているに若《し》くはなしと覚悟をきめて、反《かえ》って反対の方角へと楫《かじ》をとった。余は正直に生れた男である。しかし社会に存在して怨《うら》まれずに世の中を渡ろうとすると、どうも嘘《うそ》がつきたくなる。正直と社会生活が両立するに至れば嘘は直ちにやめるつもりでいる。
「実際残念な事をしましたね。全体浩さんはなぜ嫁をもらわなかったんですか」
「いえ、あなた色々探しておりますうちに、旅順へ参るようになったもので御座んすから」
「それじゃ当人も貰うつもりでいたんでしょう」
「それは……」と云ったが、それぎり黙っている。少々様子が変だ。あるいは寂光院事件の手懸《てがか》りが潜伏していそうだ。白状して云うと、余はその時浩さんの事も、御母さんの事も考えていなかった。ただあの不思議な女の素性《すじょう》と浩さんとの関係が知りたいので頭の中はいっぱいになっている。この日における余は平生のような同情的動物ではない。全く冷静な好奇獣《こうきじ
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