こんな美しい花を提《さ》げて御詣《おまい》りに来るのも知らずに寝ているだろう。だから浩さんはあの女の素性《すじょう》も名前も聞く必要もあるまい。浩さんが聞く必要もないものを余が探究する必要はなおさらない。いやこれはいかぬ。こう云う論理ではあの女の身元を調べてはならんと云う事になる。しかしそれは間違っている。なぜ? なぜは追って考えてから説明するとして、ただ今の場合是非共聞き糺《ただ》さなくてはならん。何でも蚊《か》でも聞かないと気が済まん。いきなり石段を一股《ひとまた》に飛び下りて化銀杏《ばけいちょう》の落葉を蹴散《けち》らして寂光院の門を出て先《ま》ず左の方を見た。いない。右を向いた。右にも見えない。足早に四つ角まで来て目の届く限り東西南北を見渡した。やはり見えない。とうとう取り逃がした。仕方がない、御母《おっか》さんに逢って話をして見《み》よう、ことによったら容子《ようす》が分るかも知れない。
三
六畳の座敷は南向《みなみむき》で、拭き込んだ椽側《えんがわ》の端《はじ》に神代杉《じんだいすぎ》の手拭懸《てぬぐいかけ》が置いてある。軒下《のきした》から丸い手
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