つ》の廻らぬ調子で述べ立てる。これが対照だ。対照も対照も一通りの対照ではない。人殺しの傍《わき》で都々逸《どどいつ》を歌うくらいの対照だ。ところが妙な事はこの滑稽《こっけい》を挿《はさ》んだために今までの凄愴《せいそう》たる光景が多少|和《やわ》らげられて、ここに至って一段とくつろぎがついた感じもなければ、また滑稽が事件の排列の具合から平生より一倍のおかしみを与えると云う訳でもない。それでは何らの功果《こうか》もないかと云うと大変ある。劇全体を通じての物凄《ものすご》さ、怖《おそろ》しさはこの一段の諧謔《かいぎゃく》のために白熱度に引き上げらるるのである。なお拡大して云えばこの場合においては諧謔その物が畏怖《いふ》である。恐懼《きょうく》である、悚然《しょうぜん》として粟《あわ》を肌《はだえ》に吹く要素になる。その訳を云えば先《ま》ずこうだ。
吾人が事物に対する観察点が従来の経験で支配せらるるのは言《げん》を待たずして明瞭な事実である。経験の勢力は度数と、単独な場合に受けた感動の量に因《よ》って高下増減するのも争われぬ事実であろう。絹布団《きぬぶとん》に生れ落ちて御意《ぎょい》だ仰せ
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