たくなって死んでいたそうだ。
ステッセルは降《くだ》った。講和は成立した。将軍は凱旋した。兵隊も歓迎された。しかし浩さんはまだ坑から上って来ない。図《はか》らず新橋へ行って色の黒い将軍を見、色の黒い軍曹を見、背《せ》の低い軍曹の御母《おっか》さんを見て涙まで流して愉快に感じた。同時に浩さんはなぜ壕から上がって来《こ》んのだろうと思った。浩さんにも御母さんがある。この軍曹のそれのように背は低くない、また冷飯草履《ひやめしぞうり》を穿《は》いた事はあるまいが、もし浩さんが無事に戦地から帰ってきて御母さんが新橋へ出迎えに来られたとすれば、やはりあの婆さんのようにぶら下がるかも知れない。浩さんもプラットフォームの上で物足らぬ顔をして御母さんの群集の中から出てくるのを待つだろう。それを思うと可哀そうなのは坑を出て来ない浩さんよりも、浮世の風にあたっている御母《おっか》さんだ。塹壕《ざんごう》に飛び込むまではとにかく、飛び込んでしまえばそれまでである。娑婆《しゃば》の天気は晴であろうとも曇であろうとも頓着《とんじゃく》はなかろう。しかし取り残された御母さんはそうは行かぬ。そら雨が降る、垂《た》れ
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