。胴に穴が開《あ》いては上がれぬ。血が通わなくなっても、脳味噌が潰《つぶ》れても、肩が飛んでも身体《からだ》が棒のように鯱張《しゃちこば》っても上がる事は出来ん。二竜山《にりゅうざん》から打出した砲煙が散じ尽した時に上がれぬばかりではない。寒い日が旅順の海に落ちて、寒い霜《しも》が旅順の山に降っても上がる事は出来ん。ステッセルが開城して二十の砲砦《ほうさい》がことごとく日本の手に帰しても上る事は出来ん。日露の講和が成就《じょうじゅ》して乃木将軍がめでたく凱旋《がいせん》しても上がる事は出来ん。百年三万六千日|乾坤《けんこん》を提《ひっさ》げて迎に来ても上がる事はついにできぬ。これがこの塹壕に飛び込んだものの運命である。しかしてまた浩さんの運命である。蠢々《しゅんしゅん》として御玉杓子《おたまじゃくし》のごとく動いていたものは突然とこの底のない坑《あな》のうちに落ちて、浮世の表面から闇《やみ》の裡《うち》に消えてしまった。旗を振ろうが振るまいが、人の目につこうがつくまいがこうなって見ると変りはない。浩さんがしきりに旗を振ったところはよかったが、壕《ほり》の底では、ほかの兵士と同じように冷
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