《よ》じ登る。見渡す山腹は敵の敷いた鉄条網で足を容《い》るる余地もない。ところを梯子《はしご》を担《にな》い土嚢《どのう》を背負《しょ》って区々《まちまち》に通り抜ける。工兵の切り開いた二間に足らぬ路は、先を争う者のために奪われて、後《あと》より詰めかくる人の勢に波を打つ。こちらから眺《なが》めるとただ一筋の黒い河が山を裂いて流れるように見える。その黒い中に敵の弾丸は容赦なく落ちかかって、すべてが消え失せたと思うくらい濃《こ》い煙が立ち揚《あが》る。怒《いか》る野分は横さまに煙りを千切《ちぎ》って遥《はる》かの空に攫《さら》って行く。あとには依然として黒い者が簇然《そうぜん》と蠢《うご》めいている。この蠢めいているもののうちに浩さんがいる。
 火桶《ひおけ》を中に浩さんと話をするときには浩さんは大きな男である。色の浅黒い髭《ひげ》の濃い立派な男である。浩さんが口を開いて興に乗った話をするときは、相手の頭の中には浩さんのほか何もない。今日《きょう》の事も忘れ明日《あす》の事も忘れ聴《き》き惚《ほ》れている自分の事も忘れて浩さんだけになってしまう。浩さんはかように偉大な男である。どこへ出し
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