である。近辺《きんぺん》に立つ見物人は万歳万歳と両人《ふたり》を囃《はや》したてる。婆さんは万歳などには毫《ごう》も耳を借す景色はない。ぶら下がったぎり軍曹の顔を下から見上げたまま吾が子に引き摺《ず》られて行く。冷飯草履《ひやめしぞうり》と鋲《びょう》を打った兵隊靴が入り乱れ、もつれ合って、うねりくねって新橋の方へ遠《とおざ》かって行く。余は浩さんの事を思い出して悵然《ちょうぜん》と草履《ぞうり》と靴の影を見送った。

          二

 浩《こう》さん! 浩さんは去年の十一月旅順で戦死した。二十六日は風の強く吹く日であったそうだ。遼東《りょうとう》の大野《たいや》を吹きめぐって、黒い日を海に吹き落そうとする野分《のわき》の中に、松樹山《しょうじゅざん》の突撃は予定のごとく行われた。時は午後一時である。掩護《えんご》のために味方の打ち出した大砲が敵塁の左突角《ひだりとっかく》に中《あた》って五丈ほどの砂煙《すなけむ》りを捲《ま》き上げたのを相図に、散兵壕《さんぺいごう》から飛び出した兵士の数は幾百か知らぬ。蟻《あり》の穴を蹴返《けかえ》したごとくに散り散りに乱れて前面の傾斜を攀
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