へ転《ころ》がった。それをから車を引いて通り掛った車夫が拾って笑いながらえへへと差し出した事を記憶している。こんどはその手は喰《く》わぬ。これなら大丈夫と帽子を確《しか》と抑えながら爪先で敷石を弾《はじ》く心持で暗に姿勢を整える。人後に落ちた仕合せには邪魔になるほど近くに人もおらぬ。しばし衰えた、歓声は盛り返す潮《うしお》の岩に砕けたようにあたり一面に湧《わ》き上がる。ここだと思い切って、両足が胴のなかに飛び込みはしまいかと疑うほど脚力をふるって跳《は》ね上った。
 幌《ほろ》を開いたランドウが横向に凱旋門《がいせんもん》を通り抜けようとする中に――いた――いた。例の黒い顔が湧《わ》き返る声に囲まれて過去の紀念のごとく華《はな》やかなる群衆の中に点じ出されていた。将軍を迎えた儀仗兵《ぎじょうへい》の馬が万歳の声に驚ろいて前足を高くあげて人込の中にそれようとするのが見えた。将軍の馬車の上に紫の旗が一流れ颯《さっ》となびくのが見えた。新橋へ曲る角の三階の宿屋の窓から藤鼠《ふじねずみ》の着物をきた女が白いハンケチを振るのが見えた。
 見えたと思うより早く余が足はまた停車場の床《ゆか》の上に着
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