ある。どうにかして見てやりたい。広場を包む万歳の声はこの時四方から大濤《おおなみ》の岸に崩《くず》れるような勢で余の鼓膜《こまく》に響き渡った。もうたまらない。どうしても見なければならん。
 ふと思いついた事がある。去年の春|麻布《あざぶ》のさる町を通行したら高い練塀《ねりべい》のある広い屋敷の内で何か多人数打ち寄って遊んででもいるのか面白そうに笑う声が聞えた。余はこの時どう云う腹工合かちょっとこの邸内を覗《のぞ》いて見たくなった。全く腹工合のせいに相違ない。腹工合でなければ、そんな馬鹿気た了見の起る訳《わけ》がない。源因はとにかく、見たいものは見たいので源因のいかんに因《よ》って変化出没する訳には行かぬ。しかし今云う通り高い土塀の向う側で笑っているのだから壁に穴のあいておらぬ限りはとうてい思い通り志望を満足する事は何人《なんびと》の手際《てぎわ》でも出来かねる。とうてい見る事が叶《かな》わないと四囲の状況から宣告を下されるとなお見てやりたくなる。愚《ぐ》な話だが余は一目でも邸内を見なければ誓ってこの町を去らずと決心した。しかし案内も乞《こ》わずに人の屋敷内に這入り込むのは盗賊の仕業《
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