は出迎と見えてその表情が将軍とはだいぶ違う。居《きょ》は気を移すと云う孟子《もうし》の語は小供の時分から聞いていたが戦争から帰った者と内地に暮らした人とはかほどに顔つきが変って見えるかと思うと一層感慨が深い。どうかもう一遍将軍の顔が見たいものだと延び上ったが駄目だ。ただ場外に群《むら》がる数万の市民が有らん限りの鬨《とき》を作って停車場の硝子窓《ガラスまど》が破《わ》れるほどに響くのみである。余の左右前後の人々はようやくに列を乱して入口の方へなだれかかる。見たいのは余と同感と見える。余も黒い波に押されて一二間石段の方へ流れたが、それぎり先へは進めぬ。こんな時には余の性分《しょうぶん》としていつでも損をする。寄席《よせ》がはねて木戸を出る時、待ち合せて電車に乗る時、人込みに切符を買う時、何でも多人数競争の折には大抵最後に取り残される、この場合にも先例に洩《も》れず首尾よく人後《じんご》に落ちた。しかも普通の落ち方ではない。遥《はる》かこなたの人後《じんご》だから心細い。葬式の赤飯に手を出し損《そくな》った時なら何とも思わないが、帝国の運命を決する活動力の断片を見損《みそこな》うのは残念で
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