》まったと云わねばならぬ。万歳がとまると共に胸の中《うち》に名状しがたい波動が込み上げて来て、両眼から二雫《ふたしずく》ばかり涙が落ちた。
 将軍は生れ落ちてから色の黒い男かも知れぬ。しかし遼東《りょうとう》の風に吹かれ、奉天の雨に打たれ、沙河《しゃか》の日に射《い》り付けられれば大抵なものは黒くなる。地体《じたい》黒いものはなお黒くなる。髯《ひげ》もその通りである。出征してから白銀《しろがね》の筋は幾本も殖《ふ》えたであろう。今日始めて見る我らの眼には、昔の将軍と今の将軍を比較する材料がない。しかし指を折って日夜に待《まち》佗《わ》びた夫人令嬢が見たならば定めし驚くだろう。戦《いくさ》は人を殺すかさなくば人を老いしむるものである。将軍はすこぶる瘠《や》せていた。これも苦労のためかも知れん。して見ると将軍の身体中《からだじゅう》で出征|前《ぜん》と変らぬのは身の丈《たけ》くらいなものであろう。余のごときは黄巻青帙《こうかんせいちつ》の間《あいだ》に起臥《きが》して書斎以外にいかなる出来事が起るか知らんでも済む天下の逸民《いつみん》である。平生戦争の事は新聞で読まんでもない、またその状況は詩的に想像せんでもない。しかし想像はどこまでも想像で新聞は横から見ても縦から見ても紙片《しへん》に過ぎぬ。だからいくら戦争が続いても戦争らしい感じがしない。その気楽な人間がふと停車場に紛《まぎ》れ込んで第一に眼に映じたのが日に焦けた顔と霜《しも》に染った髯である。戦争はまのあたりに見えぬけれど戦争の結果――たしかに結果の一片《いっぺん》、しかも活動する結果の一片が眸底《ぼうてい》を掠《かす》めて去った時は、この一片に誘われて満洲の大野《たいや》を蔽《おお》う大戦争の光景がありありと脳裏《のうり》に描出《びょうしゅつ》せられた。
 しかもこの戦争の影とも見るべき一片の周囲を繞《めぐ》る者は万歳と云う歓呼の声である。この声がすなわち満洲の野《や》に起った咄喊《とっかん》の反響である。万歳の意義は字のごとく読んで万歳に過ぎんが咄喊となるとだいぶ趣《おもむき》が違う。咄喊はワーと云うだけで万歳のように意味も何もない。しかしその意味のないところに大変な深い情《じょう》が籠《こも》っている。人間の音声には黄色いのも濁ったのも澄んだのも太いのも色々あって、その言語調子もまた分類の出来んくらい区々《まちまち》であるが一日二十四時間のうち二十三時間五十五分までは皆意味のある言葉を使っている。着衣の件、喫飯《きっぱん》の件、談判の件、懸引《かけひき》の件、挨拶《あいさつ》の件、雑話の件、すべて件と名のつくものは皆口から出る。しまいには件がなければ口から出るものは無いとまで思う。そこへもって来て、件のないのに意味の分らぬ音声を出すのは尋常ではない。出しても用の足りぬ声を使うのは経済主義から云うても功利主義から云っても割に合わぬにきまっている。その割に合わぬ声を不作法に他人様の御聞《おきき》に入れて何らの理由もないのに罪もない鼓膜《こまく》に迷惑を懸《か》けるのはよくせき[#「よくせき」に傍点]の事でなければならぬ。咄喊《とっかん》はこのよくせき[#「よくせき」に傍点]を煎《せん》じ詰めて、煮詰めて、缶詰《かんづ》めにした声である。死ぬか生きるか娑婆《しゃば》か地獄かと云う際《きわ》どい針線《はりがね》の上に立って身《み》震《ぶる》いをするとき自然と横膈膜《おうかくまく》の底から湧《わ》き上がる至誠の声である。助けてくれ[#「助けてくれ」に傍点]と云ううちに誠はあろう、殺すぞ[#「殺すぞ」に傍点]と叫ぶうちにも誠はない事もあるまい。しかし意味の通ずるだけそれだけ誠の度は少ない。意味の通ずる言葉を使うだけの余裕分別のあるうちは一心不乱の至境に達したとは申されぬ。咄喊にはこんな人間的な分子は交っておらん。ワーと云うのである。このワーには厭味《いやみ》もなければ思慮もない。理もなければ非もない。詐《いつわ》りもなければ懸引《かけひき》もない。徹頭徹尾ワーである。結晶した精神が一度に破裂して上下四囲の空気を震盪《しんとう》さしてワーと鳴る。万歳[#「万歳」に傍点]の助けてくれ[#「助けてくれ」に傍点]の殺すぞ[#「殺すぞ」に傍点]のとそんなけちな意味を有してはおらぬ。ワーその物が直《ただ》ちに精神である。霊である。人間である。誠である。しかして人界崇高の感は耳を傾けてこの誠を聴き得たる時に始めて享受し得ると思う。耳を傾けて数十人、数百人、数千数万人の誠を一度[#「一度」に傍点]に聴き得たる時にこの崇高の感は始めて無上絶大の玄境《げんきょう》に入る。――余が将軍を見て流した涼しい涙はこの玄境の反応だろう。
 将軍のあとに続いてオリーヴ色の新式の軍服を着けた士官が二三人通る。これ
前へ 次へ
全23ページ中3ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
夏目 漱石 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング