へ唐桟《とうざん》の羽織を着て鳥打帽を斜めに戴《いただ》いた男が来て、入場券は貰えません改札場の中はもういっぱいですと注進する。大方《おおかた》出入《でいり》の者であろう。室の中央に備え付けたテーブルの周囲には待《ま》ち草臥《くたび》れの連中が寄ってたかって新聞や雑誌をひねくっている。真面目に読んでるものは極《きわ》めて少ないのだから、ひねくっていると云うのが適当だろう。
 約束をした人はなかなか来《こ》ん。少々退屈になったから、少し外へ出て見ようかと室の戸口をまたぐ途端に、背広《せびろ》を着た髯《ひげ》のある男が擦《す》れ違いながら「もう直《じき》です二時四十五分ですから」と云った。時計を見ると二時三十分だ、もう十五分すれば凱旋《がいせん》の将士が見られる。こんな機会は容易にない、ついでだからと云っては失礼かも知れんが実際余のように図書館以外の空気をあまり吸った事のない人間はわざわざ歓迎のために新橋までくる折もあるまい、ちょうど幸《さいわい》だ見て行こうと了見《りょうけん》を定めた。
 室を出て見ると場内もまた往来のように行列を作って、中にはわざわざ見物に来た西洋人も交っている。西洋人ですらくるくらいなら帝国臣民たる吾輩《わがはい》は無論歓迎しなくてはならん、万歳の一つくらいは義務にも申して行こうとようやくの事で行列の中へ割り込んだ。
「あなたも御親戚を御迎いに御出《おいで》になったので……」
「ええ。どうも気が急《せ》くものですから、つい昼飯を食わずに来て、……もう二時間半ばかり待ちます」と腹は減ってもなかなか元気である。ところへ三十前後の婦人が来て
「凱旋の兵士はみんな、ここを通りましょうか」と心配そうに聞く。大切の人を見はぐっては一大事ですと云わぬばかりの決心を示している。腹の減った男はすぐ引き受けて
「ええ、みんな通るんです、一人残らず通るんだから、二時間でも三時間でもここにさえ立っていれば間違いっこありません」と答えたのはなかなか自信家と見える。しかし昼飯も食わずに待っていろとまでは云わなかった。
 汽車の笛《ふえ》の音を形容して喘息《ぜんそく》病《や》みの鯨《くじら》のようだと云った仏蘭西《フランス》の小説家があるが、なるほど旨《うま》い言葉だと思う間もなく、長蛇のごとく蜿蜒《のた》くって来た列車は、五百人余の健児を一度にプラットフォームの上に吐き出した。
「ついたようですぜ」と一人が領《くび》を延《のば》すと
「なあに、ここに立ってさえいれば大丈夫」と腹の減った男は泰然として動《どう》ずる景色《けしき》もない。この男から云うと着いても着かなくても大丈夫なのだろう。それにしても腹の減った割には落ちついたものである。
 やがて一二丁向うのプラットフォームの上で万歳! と云う声が聞える。その声が波動のように順送りに近づいてくる。例の男が「なあに、まだ大丈……」と云《い》い懸《か》けた尻尾《しっぽ》を埋《うず》めて余の左右に並んだ同勢は一度に万―歳! と叫んだ。その声の切れるか切れぬうちに一人の将軍が挙手の礼を施しながら余の前を通り過ぎた。色の焦《や》けた、胡麻塩髯《ごましおひげ》の小作《こづく》りな人である。左右の人は将軍の後《あと》を見送りながらまた万歳を唱《とな》える。余も――妙な話しだが実は万歳を唱えた事は生れてから今日《こんにち》に至るまで一度もないのである。万歳を唱えてはならんと誰からも申しつけられた覚《おぼえ》は毛頭ない。また万歳を唱えては悪《わ》るいと云う主義でも無論ない。しかしその場に臨んでいざ大声《たいせい》を発しようとすると、いけない。小石で気管を塞《ふさ》がれたようでどうしても万歳が咽喉笛《のどぶえ》へこびりついたぎり動かない。どんなに奮発しても出てくれない。――しかし今日は出してやろうと先刻《さっき》から決心していた。実は早くその機がくればよいがと待ち構えたくらいである。隣りの先生じゃないが、なあに大丈夫と安心していたのである。喘息病みの鯨が吼《ほ》えた当時からそら来たなとまで覚悟をしていたくらいだから周囲のものがワーと云うや否や尻馬《しりうま》についてすぐやろうと実は舌の根まで出しかけたのである。出しかけた途端に将軍が通った。将軍の日に焦《や》けた色が見えた。将軍の髯《ひげ》の胡麻塩《ごましお》なのが見えた。その瞬間に出しかけた万歳がぴたりと中止してしまった。なぜ?
 なぜか分るものか。なにゆえとかこのゆえとか云うのは事件が過ぎてから冷静な頭脳に復したとき当時を回想して始めて分解し得た智識に過ぎん。なにゆえが分るくらいなら始めから用心をして万歳の逆戻りを防いだはずである。予期出来ん咄嗟《とっさ》の働きに分別が出るものなら人間の歴史は無事なものである。余の万歳は余の支配権以外に超然として止《と
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