趣味の遺伝
夏目漱石
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)逆《さか》しまに
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)折々|佩剣《はいけん》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「螯」の「虫」に代えて「犬」、第4水準2−80−47]
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一
陽気のせいで神も気違《きちがい》になる。「人を屠《ほふ》りて餓《う》えたる犬を救え」と雲の裡《うち》より叫ぶ声が、逆《さか》しまに日本海を撼《うご》かして満洲の果まで響き渡った時、日人と露人ははっと応《こた》えて百里に余る一大|屠場《とじょう》を朔北《さくほく》の野《や》に開いた。すると渺々《びょうびょう》たる平原の尽くる下より、眼にあまる※[#「螯」の「虫」に代えて「犬」、第4水準2−80−47]狗《ごうく》の群《むれ》が、腥《なまぐさ》き風を横に截《き》り縦に裂いて、四つ足の銃丸を一度に打ち出したように飛んで来た。狂える神が小躍《こおど》りして「血を啜《すす》れ」と云うを合図に、ぺらぺらと吐く※[#「(諂−言)+炎」、第3水準1−87−64]《ほのお》の舌は暗き大地を照らして咽喉《のど》を越す血潮の湧《わ》き返る音が聞えた。今度は黒雲の端《はじ》を踏み鳴らして「肉を食《くら》え」と神が号《さけ》ぶと「肉を食え! 肉を食え!」と犬共も一度に咆《ほ》え立てる。やがてめりめりと腕を食い切る、深い口をあけて耳の根まで胴にかぶりつく。一つの脛《すね》を啣《くわ》えて左右から引き合う。ようやくの事肉は大半平げたと思うと、また羃々《べきべき》たる雲を貫《つら》ぬいて恐しい神の声がした。「肉の後には骨をしゃぶれ」と云う。すわこそ骨だ。犬の歯は肉よりも骨を噛《か》むに適している。狂う神の作った犬には狂った道具が具《そな》わっている。今日の振舞を予期して工夫してくれた歯じゃ。鳴らせ鳴らせと牙《きば》を鳴らして骨にかかる。ある者は摧《くじ》いて髄《ずい》を吸い、ある者は砕いて地に塗《まみ》る。歯の立たぬ者は横にこいて牙《きば》を磨《と》ぐ。
怖《こわ》い事だと例の通り空想に耽《ふけ》りながらいつしか新橋へ来た。見ると停車場前の広場はいっぱいの人で凱旋門《がいせんもん》を通して二間ばかりの路を開いたまま、左右には割り込む事も出来ないほど行列している。何だろう?
行列の中には怪《あや》し気《げ》な絹帽《シルクハット》を阿弥陀《あみだ》に被《かぶ》って、耳の御蔭で目隠しの難を喰《く》い止《と》めているのもある。仙台平《せんだいひら》を窮屈そうに穿《は》いて七子《ななこ》の紋付を人の着物のようにいじろじろ眺《なが》めているのもある。フロック・コートは承知したがズックの白い運動靴をはいて同じく白の手袋をちょっと見たまえと云わぬばかりに振り廻しているのは奇観だ。そうして二十人に一本ずつくらいの割合で手頃な旗を押し立てている。大抵は紫《むらさき》に字を白く染め抜いたものだが、中には白地に黒々と達筆を振《ふる》ったのも見える。この旗さえ見たらこの群集の意味も大概《たいがい》分るだろうと思って一番近いのを注意して読むと木村六之助君の凱旋《がいせん》を祝す連雀町《れんじゃくちょう》有志者とあった。ははあ歓迎だと始めて気がついて見ると、先刻《さっき》の異装紳士も何となく立派に見えるような気がする。のみならず戦争を狂神のせいのように考えたり、軍人を犬に食われに戦地へ行くように想像したのが急に気の毒になって来た。実は待ち合す人があって停車場まで行くのであるが、停車場へ達するには是非共この群集を左右に見て誰も通らない真中をただ一人歩かなくってはならん。よもやこの人々が余の詩想を洞見《どうけん》しはしまいが、たださえ人の注視をわれ一人に集めて往来を練《ね》って行くのはきまりが悪《わ》るいのに、犬に喰い残された者の家族と聞いたら定めし怒《おこ》る事であろうと思うと、一層調子が狂うところを何でもない顔をして、急ぎ足に停車場の石段の上まで漕《こ》ぎつけたのは少し苦しかった。
場内へ這入って見るとここも歓迎の諸君で容易に思う所へ行けぬ。ようやくの事一等の待合へ来て見ると約束をした人は未《ま》だ来ておらぬらしい。暖炉の横に赤い帽子を被った士官が何かしきりに話しながら折々|佩剣《はいけん》をがちゃつかせている。その傍《そば》に絹帽《シルクハット》が二つ並んで、その一つには葉巻の煙《けむ》りが輪になってたなびいている。向うの隅に白襟《しろえり》の細君が品《ひん》のよい五十|恰好《かっこう》の婦人と、傍《わ》きの人には聞えぬほどな低い声で何事か耳語《ささや》いている。ところ
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