は出迎と見えてその表情が将軍とはだいぶ違う。居《きょ》は気を移すと云う孟子《もうし》の語は小供の時分から聞いていたが戦争から帰った者と内地に暮らした人とはかほどに顔つきが変って見えるかと思うと一層感慨が深い。どうかもう一遍将軍の顔が見たいものだと延び上ったが駄目だ。ただ場外に群《むら》がる数万の市民が有らん限りの鬨《とき》を作って停車場の硝子窓《ガラスまど》が破《わ》れるほどに響くのみである。余の左右前後の人々はようやくに列を乱して入口の方へなだれかかる。見たいのは余と同感と見える。余も黒い波に押されて一二間石段の方へ流れたが、それぎり先へは進めぬ。こんな時には余の性分《しょうぶん》としていつでも損をする。寄席《よせ》がはねて木戸を出る時、待ち合せて電車に乗る時、人込みに切符を買う時、何でも多人数競争の折には大抵最後に取り残される、この場合にも先例に洩《も》れず首尾よく人後《じんご》に落ちた。しかも普通の落ち方ではない。遥《はる》かこなたの人後《じんご》だから心細い。葬式の赤飯に手を出し損《そくな》った時なら何とも思わないが、帝国の運命を決する活動力の断片を見損《みそこな》うのは残念である。どうにかして見てやりたい。広場を包む万歳の声はこの時四方から大濤《おおなみ》の岸に崩《くず》れるような勢で余の鼓膜《こまく》に響き渡った。もうたまらない。どうしても見なければならん。
 ふと思いついた事がある。去年の春|麻布《あざぶ》のさる町を通行したら高い練塀《ねりべい》のある広い屋敷の内で何か多人数打ち寄って遊んででもいるのか面白そうに笑う声が聞えた。余はこの時どう云う腹工合かちょっとこの邸内を覗《のぞ》いて見たくなった。全く腹工合のせいに相違ない。腹工合でなければ、そんな馬鹿気た了見の起る訳《わけ》がない。源因はとにかく、見たいものは見たいので源因のいかんに因《よ》って変化出没する訳には行かぬ。しかし今云う通り高い土塀の向う側で笑っているのだから壁に穴のあいておらぬ限りはとうてい思い通り志望を満足する事は何人《なんびと》の手際《てぎわ》でも出来かねる。とうてい見る事が叶《かな》わないと四囲の状況から宣告を下されるとなお見てやりたくなる。愚《ぐ》な話だが余は一目でも邸内を見なければ誓ってこの町を去らずと決心した。しかし案内も乞《こ》わずに人の屋敷内に這入り込むのは盗賊の仕業《しわざ》だ。と云って案内を乞うて這入るのはなおいやだ。この邸内の者共の御世話にならず、しかもわが人格を傷《きずつ》けず正々堂々と見なくては心持ちがわるい。そうするには高い山から見下《みおろ》すか、風船の上から眺《なが》めるよりほかに名案もない。しかし双方共当座の間に合うような手軽なものとは云えぬ。よし、その儀ならこっちにも覚悟がある。高等学校時代で練習した高飛の術を応用して、飛び上がった時にちょっと見てやろう。これは妙策だ、幸い人通りもなし、あったところが自分で自分が飛び上るに文句をつけられる因縁《いんねん》はない。やるべしと云うので、突然双脚に精一杯の力を込めて飛び上がった。すると熟練の結果は恐ろしい者で、かの土塀の上へ首が――首どころではない肩までが思うように出た。この機をはずすととうてい目的は達せられぬと、ちらつく両眼を無理に据《す》えて、ここぞと思うあたりを瞥見《べっけん》すると女が四人でテニスをしていた。余が飛び上がるのを相図に四人が申し合せたようにホホホと癇《かん》の高い声で笑った。おやと思ううちにどたりと元のごとく地面の上に立った。
 これは誰が聞いても滑稽《こっけい》である。冒険の主人公たる当人ですらあまり馬鹿気ているので今日《こんにち》まで何人《なんびと》にも話さなかったくらい自《みずか》ら滑稽と心得ている。しかし滑稽とか真面目《まじめ》とか云うのは相手と場合によって変化する事で、高飛びその物が滑稽とは理由のない言草《いいぐさ》である。女がテニスをしているところへこっちが飛び上がったから滑稽にもなるが、ロメオがジュリエットを見るために飛び上ったって滑稽にはならない。ロメオくらいなところでは未《ま》だ滑稽を脱せぬと云うなら余はなお一歩を進める。この凱旋《がいせん》の将軍、英名|嚇々《かくかく》たる偉人を拝見するために飛び上がるのは滑稽ではあるまい。それでも滑稽か知らん? 滑稽だって構うものか。見たいものは、誰が何と云っても見たいのだ。飛び上がろう、それがいい、飛び上がるにしくなしだと、とうとうまた先例によって一蹴《いっしゅう》を試むる事に決着した。先《ま》ず帽子をとって小脇に抱《か》い込む。この前は経験が足りなかったので足が引力作用で地面へ引き着けられた勢に、買いたての中折帽《なかおれぼう》が挨拶《あいさつ》もなく宙返りをして、一間ばかり向《むこう》
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