へ転《ころ》がった。それをから車を引いて通り掛った車夫が拾って笑いながらえへへと差し出した事を記憶している。こんどはその手は喰《く》わぬ。これなら大丈夫と帽子を確《しか》と抑えながら爪先で敷石を弾《はじ》く心持で暗に姿勢を整える。人後に落ちた仕合せには邪魔になるほど近くに人もおらぬ。しばし衰えた、歓声は盛り返す潮《うしお》の岩に砕けたようにあたり一面に湧《わ》き上がる。ここだと思い切って、両足が胴のなかに飛び込みはしまいかと疑うほど脚力をふるって跳《は》ね上った。
幌《ほろ》を開いたランドウが横向に凱旋門《がいせんもん》を通り抜けようとする中に――いた――いた。例の黒い顔が湧《わ》き返る声に囲まれて過去の紀念のごとく華《はな》やかなる群衆の中に点じ出されていた。将軍を迎えた儀仗兵《ぎじょうへい》の馬が万歳の声に驚ろいて前足を高くあげて人込の中にそれようとするのが見えた。将軍の馬車の上に紫の旗が一流れ颯《さっ》となびくのが見えた。新橋へ曲る角の三階の宿屋の窓から藤鼠《ふじねずみ》の着物をきた女が白いハンケチを振るのが見えた。
見えたと思うより早く余が足はまた停車場の床《ゆか》の上に着いた。すべてが一瞬間の作用である。ぱっと射る稲妻の飽《あ》くまで明るく物を照らした後《あと》が常よりは暗く見えるように余は茫然《ぼうぜん》として地に下りた。
将軍の去ったあとは群衆も自《おのず》から乱れて今までのように静粛ではない。列を作った同勢の一角《いっかく》が崩《くず》れると、堅い黒山が一度に動き出して濃い所がだんだん薄くなる。気早《きばや》な連中はもう引き揚げると見える。ところへ将軍と共に汽車を下りた兵士が三々五々隊を組んで場内から出てくる。服地の色は褪《さ》めて、ゲートルの代りには黄な羅紗《らしゃ》を畳んでぐるぐると脛《すね》へ巻きつけている。いずれもあらん限りの髯《ひげ》を生《は》やして、出来るだけ色を黒くしている。これらも戦争の片破《かたわ》れである。大和魂《やまとだましい》を鋳《い》固《かた》めた製作品である。実業家も入《い》らぬ、新聞屋も入らぬ、芸妓《げいしゃ》も入らぬ、余のごとき書物と睨《にら》めくらをしているものは無論入らぬ。ただこの髯|茫々《ぼうぼう》として、むさくるしき事|乞食《こつじき》を去る遠からざる紀念物のみはなくて叶《かな》わぬ。彼らは日本の精神を代表するのみならず、広く人類一般の精神を代表している。人類の精神は算盤《そろばん》で弾《はじ》けず、三味線に乗らず、三|頁《ページ》にも書けず、百科全書中にも見当らぬ。ただこの兵士らの色の黒い、みすぼらしいところに髣髴《ほうふつ》として揺曳《ようえい》している。出山《しゅっせん》の釈迦《しゃか》はコスメチックを塗ってはおらん。金の指輪も穿《は》めておらん。芥溜《ごみだめ》から拾い上げた雑巾《ぞうきん》をつぎ合せたようなもの一枚を羽織っているばかりじゃ。それすら全身を掩《おお》うには足らん。胸のあたりは北風の吹き抜けで、肋骨《ろっこつ》の枚数は自由に読めるくらいだ。この釈迦が尊《たっと》ければこの兵士も尊《たっ》といと云わねばならぬ。昔《むか》し元寇《げんこう》の役《えき》に時宗《ときむね》が仏光国師《ぶっこうこくし》に謁《えっ》した時、国師は何と云うた。威《い》を振《ふる》って驀地《ばくち》に進めと吼《ほ》えたのみである。このむさくろしき兵士らは仏光国師の熱喝《ねっかつ》を喫《きっ》した訳でもなかろうが驀地に進むと云う禅機《ぜんき》において時宗と古今《ここん》その揆《き》を一《いつ》にしている。彼らは驀地に進み了して曠如《こうじょ》と吾家《わがや》に帰り来りたる英霊漢である。天上を行き天下《てんげ》を行き、行き尽してやまざる底《てい》の気魄《きはく》が吾人の尊敬に価《あたい》せざる以上は八荒《はっこう》の中《うち》に尊敬すべきものは微塵《みじん》ほどもない。黒い顔! 中には日本に籍があるのかと怪まれるくらい黒いのがいる。――刈り込まざる髯! 棕櫚箒《しゅろぼうき》を砧《きぬた》で打ったような髯――この気魄《きはく》は這裏《しゃり》に磅※[#「石+薄」、第3水準1−89−18]《ほうはく》として蟠《わだか》まり※[#「さんずい+亢」、第3水準1−86−55]瀁《こうよう》として漲《みなぎ》っている。
兵士の一隊が出てくるたびに公衆は万歳を唱《とな》えてやる。彼らのあるものは例の黒い顔に笑《えみ》を湛《たた》えて嬉《うれ》し気《げ》に通り過ぎる。あるものは傍目《わきめ》もふらずのそのそと行く。歓迎とはいかなる者ぞと不審気に見える顔もたまには見える。またある者は自己の歓迎旗の下に立って揚々《ようよう》と後《おく》れて出る同輩を眺《なが》めている。あるいは石段を下《くだ》る
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