や否《いな》や迎《むかえ》のものに擁《よう》せられて、あまりの不意撃《ふいうち》に挨拶さえも忘れて誰彼の容赦なく握手の礼を施こしている。出征中に満洲で覚えたのであろう。
 その中に――これがはからずもこの話をかく動機になったのであるが――年の頃二十八九の軍曹が一人いた。顔は他の先生方と異《こと》なるところなく黒い、髯《ひげ》も延びるだけ延ばしておそらくは去年から持ち越したものと思われるが目鼻立ちはほかの連中とは比較にならぬほど立派である。のみならず亡友|浩《こう》さんと兄弟と見違えるまでよく似ている。実はこの男がただ一人石段を下りて出た時ははっと思って馳《か》け寄ろうとしたくらいであった。しかし浩さんは下士官ではない。志願兵から出身した歩兵中尉である。しかも故歩兵中尉で今では白山の御寺に一年|余《よ》も厄介《やっかい》になっている。だからいくら浩さんだと思いたくっても思えるはずがない。ただ人情は妙なものでこの軍曹が浩さんの代りに旅順で戦死して、浩さんがこの軍曹の代りに無事で還《かえ》って来たらさぞ結構であろう。御母《おっか》さんも定めし喜ばれるであろうと、露見《ろけん》する気づかいがないものだから勝手な事を考えながら眺《なが》めていた。軍曹も何か物足らぬと見えてしきりにあたりを見廻している。ほかのもののように足早に新橋の方へ立ち去る景色《けしき》もない。何を探《さ》がしているのだろう、もしや東京のものでなくて様子が分らんのなら教えて遣《や》りたいと思ってなお目を放さずに打ち守っていると、どこをどう潜《くぐ》り抜けたものやら、六十ばかりの婆さんが飛んで出て、いきなり軍曹の袖《そで》にぶら下がった。軍曹は中肉ではあるが背《せい》は普通よりたしかに二寸は高い。これに反して婆さんは人並はずれて丈《たけ》が低い上に年のせいで腰が少々曲っているから、抱き着いたとも寄り添うたとも形容は出来ぬ。もし余が脳中にある和漢の字句を傾けて、その中《うち》からこのありさまを叙するに最も適当なる詞《ことば》を探したなら必ずぶら下がる[#「ぶら下がる」に傍点]が当選するにきまっている。この時軍曹は紛失物が見当ったと云う風で上から婆さんを見下《みおろ》す。婆さんはやっと迷児《まいご》を見つけたと云う体《てい》で下から軍曹を見上げる。やがて軍曹はあるき出す。婆さんもあるき出す。やはりぶらさがったままである。近辺《きんぺん》に立つ見物人は万歳万歳と両人《ふたり》を囃《はや》したてる。婆さんは万歳などには毫《ごう》も耳を借す景色はない。ぶら下がったぎり軍曹の顔を下から見上げたまま吾が子に引き摺《ず》られて行く。冷飯草履《ひやめしぞうり》と鋲《びょう》を打った兵隊靴が入り乱れ、もつれ合って、うねりくねって新橋の方へ遠《とおざ》かって行く。余は浩さんの事を思い出して悵然《ちょうぜん》と草履《ぞうり》と靴の影を見送った。

          二

 浩《こう》さん! 浩さんは去年の十一月旅順で戦死した。二十六日は風の強く吹く日であったそうだ。遼東《りょうとう》の大野《たいや》を吹きめぐって、黒い日を海に吹き落そうとする野分《のわき》の中に、松樹山《しょうじゅざん》の突撃は予定のごとく行われた。時は午後一時である。掩護《えんご》のために味方の打ち出した大砲が敵塁の左突角《ひだりとっかく》に中《あた》って五丈ほどの砂煙《すなけむ》りを捲《ま》き上げたのを相図に、散兵壕《さんぺいごう》から飛び出した兵士の数は幾百か知らぬ。蟻《あり》の穴を蹴返《けかえ》したごとくに散り散りに乱れて前面の傾斜を攀《よ》じ登る。見渡す山腹は敵の敷いた鉄条網で足を容《い》るる余地もない。ところを梯子《はしご》を担《にな》い土嚢《どのう》を背負《しょ》って区々《まちまち》に通り抜ける。工兵の切り開いた二間に足らぬ路は、先を争う者のために奪われて、後《あと》より詰めかくる人の勢に波を打つ。こちらから眺《なが》めるとただ一筋の黒い河が山を裂いて流れるように見える。その黒い中に敵の弾丸は容赦なく落ちかかって、すべてが消え失せたと思うくらい濃《こ》い煙が立ち揚《あが》る。怒《いか》る野分は横さまに煙りを千切《ちぎ》って遥《はる》かの空に攫《さら》って行く。あとには依然として黒い者が簇然《そうぜん》と蠢《うご》めいている。この蠢めいているもののうちに浩さんがいる。
 火桶《ひおけ》を中に浩さんと話をするときには浩さんは大きな男である。色の浅黒い髭《ひげ》の濃い立派な男である。浩さんが口を開いて興に乗った話をするときは、相手の頭の中には浩さんのほか何もない。今日《きょう》の事も忘れ明日《あす》の事も忘れ聴《き》き惚《ほ》れている自分の事も忘れて浩さんだけになってしまう。浩さんはかように偉大な男である。どこへ出し
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