ても浩さんなら大丈夫、人の目に着くにきまっていると思っていた。だから蠢めいているなどと云う下等な動詞は浩さんに対して用いたくない。ないが仕方がない。現に蠢めいている。鍬《くわ》の先に掘《ほ》り崩《くず》された蟻群《ぎぐん》の一匹のごとく蠢めいている。杓《ひしゃく》の水を喰《くら》った蜘蛛《くも》の子のごとく蠢めいている。いかなる人間もこうなると駄目だ。大いなる山、大いなる空、千里を馳《か》け抜ける野分、八方を包む煙り、鋳鉄《しゅてつ》の咽喉《のんど》から吼《ほ》えて飛ぶ丸《たま》――これらの前にはいかなる偉人も偉人として認められぬ。俵に詰めた大豆《だいず》の一粒のごとく無意味に見える。嗚呼《ああ》浩さん! 一体どこで何をしているのだ? 早く平生の浩さんになって一番|露助《ろすけ》を驚かしたらよかろう。
黒くむらがる者は丸《たま》を浴びるたびにぱっと消える。消えたかと思うと吹き散る煙の中に動いている。消えたり動いたりしているうちに、蛇《へび》の塀《へい》をわたるように頭から尾まで波を打ってしかも全体が全体としてだんだん上へ上へと登って行く、もう敵塁だ。浩さん真先に乗り込まなければいけない。煙の絶間から見ると黒い頭の上に旗らしいものが靡《なび》いている。風の強いためか、押し返されるせいか、真直ぐに立ったと思うと寝る。落ちたのかと驚ろくとまた高くあがる。するとまた斜《なな》めに仆《たお》れかかる。浩さんだ、浩さんだ。浩さんに相違ない。多人数《たにんず》集まって揉《も》みに揉んで騒いでいる中にもし一人でも人の目につくものがあれば浩さんに違ない。自分の妻は天下の美人である。この天下の美人が晴れの席へ出て隣りの奥様と撰《えら》ぶところなくいっこう目立たぬのは不平な者だ。己《おの》れの子が己れの家庭にのさばっている間は天にも地にも懸替《かけがえ》のない若旦那である。この若旦那が制服を着けて学校へ出ると、向うの小間物屋のせがれと席を列《なら》べて、しかもその間に少しも懸隔のないように見えるのはちょっと物足らぬ感じがするだろう。余の浩さんにおけるもその通り。浩さんはどこへ出しても平生の浩さんらしくなければ気が済まん。擂鉢《すりばち》の中に攪《か》き廻される里芋《さといも》のごとく紛然雑然とゴロゴロしていてはどうしても浩さんらしくない。だから、何でも構わん、旗を振ろうが、剣を翳《かざ》そうが、とにかくこの混乱のうちに少しなりとも人の注意を惹《ひ》くに足る働《はたらき》をするものを浩さんにしたい。したい段ではない。必ず浩さんにきまっている。どう間違ったって浩さんが碌々《ろくろく》として頭角をあらわさないなどと云う不見識な事は予期出来んのである。――それだからあの旗持は浩さんだ。
黒い塊《かたま》りが敵塁の下まで来たから、もう塁壁を攀《よ》じ上《のぼ》るだろうと思ううち、たちまち長い蛇《へび》の頭はぽつりと二三寸切れてなくなった。これは不思議だ。丸《たま》を喰《くら》って斃《たお》れたとも見えない。狙撃《そげき》を避けるため地に寝たとも見えない。どうしたのだろう。すると頭の切れた蛇がまた二三寸ぷつりと消えてなくなった。これは妙だと眺《なが》めていると、順繰《じゅんぐり》に下から押し上《あが》る同勢が同じ所へ来るや否《いな》やたちまちなくなる。しかも砦《とりで》の壁には誰一人としてとりついたものがない。塹壕《ざんごう》だ。敵塁と我兵の間にはこの邪魔物があって、この邪魔物を越さぬ間は一人も敵に近《ちかづ》く事は出来んのである。彼らはえいえいと鉄条網を切り開いた急坂《きゅうはん》を登りつめた揚句《あげく》、この壕《ほり》の端《はた》まで来て一も二もなくこの深い溝《みぞ》の中に飛び込んだのである。担《にな》っている梯子《はしご》は壁に懸けるため、背負《しょ》っている土嚢《どのう》は壕を埋《うず》めるためと見えた。壕はどのくらい埋《うま》ったか分らないが、先の方から順々に飛び込んではなくなり、飛び込んではなくなってとうとう浩さんの番に来た。いよいよ浩さんだ。しっかりしなくてはいけない。
高く差し上げた旗が横に靡《なび》いて寸断寸断《ずたずた》に散るかと思うほど強く風を受けた後《のち》、旗竿《はたざお》が急に傾いて折れたなと疑う途端《とたん》に浩さんの影はたちまち見えなくなった。いよいよ飛び込んだ! 折から二竜山《にりゅうざん》の方面より打ち出した大砲が五六発、大空に鳴る烈風を劈《つんざ》いて一度に山腹に中《あた》って山の根を吹き切るばかり轟《とどろ》き渡る。迸《ほとば》しる砂煙《すなけむり》は淋《さび》しき初冬《はつふゆ》の日蔭を籠《こ》めつくして、見渡す限りに有りとある物を封じ了《おわ》る。浩さんはどうなったか分らない。気が気でない。あの煙の吹いている
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