んの一家は代々東京で暮らしたようであるがその実町人でもなければ幕臣でもない。聞くところによると浩さんの家は紀州の藩士であったが江戸詰で代々こちらで暮らしたのだそうだ。紀州の家来と云う事だけ分ればそれで充分|手懸《てがか》りはある。紀州の藩士は何百人あるか知らないが現今東京に出ている者はそんなに沢山あるはずがない。ことにあの女のように立派な服装をしている身分なら藩主の家へ出入りをするにきまっている。藩主の家に出入するとすればその姓名はすぐに分る。これが余の仮定である。もしあの女が浩さんと同藩でないとするとこの事件は当分|埓《らち》があかない。抛《ほう》って置いて自然天然寂光院に往来で邂逅《かいこう》するのを待つよりほかに仕方がない。しかし余の仮定が中《あた》るとすると、あとは大抵余の考え通りに発展して来るに相違ない。余の考によると何でも浩さんの先祖と、あの女の先祖の間に何事かあって、その因果でこんな現象を生じたに違いない。これが第二の仮定である。こうこしらえてくるとだんだん面白くなってくる。単に自分の好奇心を満足させるばかりではない。目下研究の学問に対してもっとも興味ある材料を給与する貢献《こうけん》的事業になる。こう態度が変化すると、精神が急に爽快《そうかい》になる。今までは犬だか、探偵だかよほど下等なものに零落したような感じで、それがため脳中不愉快の度をだいぶ高めていたが、この仮定から出立すれば正々堂々たる者だ。学問上の研究の領分に属すべき事柄である。少しも疚《や》ましい事はないと思い返した。どんな事でも思い返すと相当のジャスチフィケーションはある者だ。悪るかったと気がついたら黙坐して思い返すに限る。
あくる日学校で和歌山県出の同僚某に向って、君の国に老人で藩の歴史に詳しい人はいないかと尋ねたら、この同僚首をひねってあるさと云う。因《よ》ってその人物を承《うけたま》わると、もとは家老《かろう》だったが今では家令《かれい》と改名して依然として生きていると何だか妙な事を答える。家令ならなお都合がいい、平常《ふだん》藩邸に出入《しゅつにゅう》する人物の姓名職業は無論承知しているに違ない。
「その老人は色々昔の事を記憶しているだろうな」
「うん何でも知っている。維新の時なぞはだいぶ働いたそうだ。槍《やり》の名人でね」
槍などは下手《へた》でも構わん。昔《むか》し藩中に起った異聞奇譚《いぶんきだん》を、老耄《ろうもう》せずに覚えていてくれればいいのである。だまって聞いていると話が横道へそれそうだ。
「まだ家令を務《つと》めているくらいなら記憶はたしかだろうな」
「たしか過ぎて困るね。屋敷のものがみんな弱っている。もう八十近いのだが、人間も随分丈夫に製造する事が出来るもんだね。当人に聞くと全く槍術《そうじゅつ》の御蔭だと云ってる。それで毎朝起きるが早いか槍をしごくんだ……」
「槍はいいが、その老人に紹介して貰えまいか」
「いつでもして上げる」と云うと傍《そば》に聞いていた同僚が、君は白山の美人を探《さ》がしたり、記憶のいい爺さんを探したり、随分多忙だねと笑った。こっちはそれどころではない。この老人に逢いさえすれば、自分の鑑定が中《あた》るか外《はず》れるか大抵の見当がつく。一刻も早く面会しなければならん。同僚から手紙で先方の都合を聞き合せてもらう事にする。
二三日《にさんち》は何の音沙汰《おとさた》もなく過ぎたが、御面会をするから明日《みょうにち》三時頃来て貰いたいと云う返事がようやくの事来たよと同僚が告げてくれた時は大《おおい》に嬉《うれ》しかった。その晩は勝手次第に色々と事件の発展を予想して見て、先《ま》ず七分までは思い通りの事実が暗中から白日の下《もと》に引き出されるだろうと考えた。そう考えるにつけて、余のこの事件に対する行動が――行動と云わんよりむしろ思いつきが、なかなか巧みである、無学なものならとうていこんな点に考えの及ぶ気遣《きづかい》はない、学問のあるものでも才気のない人にはこのような働きのある応用が出来る訳がないと、寝ながら大得意であった。ダーウィンが進化論を公けにした時も、ハミルトンがクォーターニオンを発明した時も大方《おおかた》こんなものだろうと独《ひと》りでいい加減にきめて見る。自宅《うち》の渋柿は八百屋《やおや》から買った林檎《りんご》より旨《うま》いものだ。
翌日《あくるひ》は学校が午《ひる》ぎりだから例刻を待ちかねて麻布《あざぶ》まで車代二十五銭を奮発して老人に逢って見る。老人の名前はわざと云わない。見るからに頑丈《がんじょう》な爺さんだ。白い髯《ひげ》を細長く垂れて、黒紋付に八王子平《はちおうじひら》で控えている。「やあ、あなたが、何の御友達で」と同僚の名を云う。まるで小供扱だ。これから大発明をして
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