件が気になっていつものように授業に身が入《い》らない。控所へ来ても他の職員と話しをする気にならん。学校の退《ひ》けるのを待ちかねて、その足で寂光院へ来て見たが、女の姿は見えない。昨日《きのう》の菊が鮮やかに竹藪《たけやぶ》の緑に映じて雪の団子《だんご》のように見えるばかりだ。それから白山から原町、林町の辺《へん》をぐるぐる廻って歩いたがやはり何らの手懸《てがか》りもない。その晩は疲労のため寝る事だけはよく寝た。しかし朝になって授業が面白く出来ないのは昨日と変る事はなかった。三日目に教員の一人を捕《つら》まえて君白山方面に美人がいるかなと尋ねて見たら、うむ沢山いる、あっちへ引越したまえと云った。帰りがけに学生の一人に追いついて君は白山の方にいるかと聞いたら、いいえ森川町ですと答えた。こんな馬鹿な騒ぎ方をしていたって始まる訳のものではない。やはり平生のごとく落ちついて、緩《ゆ》るりと探究するに若《し》くなしと決心を定めた。それでその晩は煩悶《はんもん》焦慮もせず、例の通り静かに書斎に入って、せんだって中《じゅう》からの取調物を引き続いてやる事にした。
近頃余の調べている事項は遺伝と云う大問題である。元来余は医者でもない、生物学者でもない。だから遺伝と云う問題に関して専門上の智識は無論有しておらぬ。有しておらぬところが余の好奇心を挑撥《ちょうはつ》する訳で、近頃ふとした事からこの問題に関してその起原発達の歴史やら最近の学説やらを一通り承知したいと云う希望を起して、それからこの研究を始めたのである。遺伝と一口に云うとすこぶる単純なようであるがだんだん調べて見ると複雑な問題で、これだけ研究していても充分|生涯《しょうがい》の仕事はある。メンデリズムだの、ワイスマンの理論だの、ヘッケルの議論だの、その弟子のヘルトウィッヒの研究だの、スペンサーの進化心理説だのと色々の人が色々の事を云うている。そこで今夜は例のごとく書斎の裡《うち》で近頃出版になった英吉利《イギリス》のリードと云う人の著述を読むつもりで、二三枚だけは何気なくはぐってしまった。するとどう云う拍子《ひょうし》か、かの日記の中の事柄が、書物を読ませまいと頭の中へ割り込んでくる。そうはさせぬとまた一枚ほど開《あ》けると、今度は寂光院が襲って来る。ようやくそれを追払って五六枚無難に通過したかと思うと、御母《おっか》さんの切り下げの被布《ひふ》姿がページの上にあらわれる。読むつもりで決心して懸《かか》った仕事だから読めん事はない。読めん事はないがページとページの間に狂言が這入《はい》る。それでも構わずどしどし進んで行くと、この狂言と本文の間が次第次第に接近して来る。しまいにはどこからが狂言でどこまでが本文か分らないようにぼうっとして来た。この夢のようなありさまで五六分続けたと思ううち、たちまち頭の中に電流を通じた感じがしてはっと我に帰った。「そうだ、この問題は遺伝で解ける問題だ。遺伝で解けばきっと解ける」とは同時に吾口を突いて飛び出した言語である。今まではただ不思議である小説的である。何となく落ちつかない、何か疑惑を晴らす工夫はあるまいか、それには当人を捕えて聞き糺《ただ》すよりほかに方法はあるまいとのみ速断して、その結果は朋友に冷かされたり、屑屋《くずや》流に駒込近傍を徘徊《はいかい》したのである。しかしこんな問題は当人の支配権以外に立つ問題だから、よし当人を尋ねあてて事実を明らかにしたところで不思議は解けるものでない。当人から聞き得る事実その物が不思議である以上は余の疑惑は落ちつきようがない。昔はこんな現象を因果《いんが》と称《とな》えていた。因果は諦《あき》らめる者、泣く子と地頭には勝たれぬ者と相場がきまっていた。なるほど因果と言い放てば因果で済むかも知れない。しかし二十世紀の文明はこの因《いん》を極《きわ》めなければ承知しない。しかもこんな芝居的夢幻的現象の因を極めるのは遺伝によるよりほかにしようはなかろうと思う。本来ならあの女を捕《つら》まえて日記中の女と同人か別物かを明《あきらか》にした上で遺伝の研究を初めるのが順当であるが、本人の居所さえたしかならぬただいまでは、この順序を逆にして、彼らの血統から吟味して、下から上へ溯《さかのぼ》る代りに、昔から今に繰《く》りさげて来るよりほかに道はあるまい。いずれにしても同じ結果に帰着する訳だから構わない。
そんならどうして両人の血統を調べたものだろう。女の方は何者だか分らないから、先《ま》ず男の方から調べてかかる。浩さんは東京で生れたから東京っ子である。聞くところによれば浩さんの御父《おとっ》さんも江戸で生れて江戸で死んだそうだ。するとこれも江戸っ子である。御爺《おじい》さんも御爺さんの御父《おとっ》さんも江戸っ子である。すると浩さ
前へ
次へ
全23ページ中19ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
夏目 漱石 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング