の棒の下からある字が三分の二ばかり食《は》み出している。郵[#「郵」に傍点]の字らしい。それから骨を折ってようよう郵便局の三字だけ片づけた。郵便局の上の字は大※[#「大※」に傍点][#「郷−即のへん」、232−1]だけ見えている。これは何だろうと三分ほどランプと相談をしてやっと分った。本郷郵便局である。ここまではようやく漕《こ》ぎつけたがそのほかは裏から見ても逆《さか》さまに見てもどうしても読めない。とうとう断念する。それから二三頁進むと突然一大発見に遭遇した。「二三日《にさんち》一睡もせんので勤務中坑内|仮寝《かしん》。郵便局で逢った女の夢を見る」
 余は覚えずどきりとした。「ただ二三分の間、顔を見たばかりの女を、ほど経《へ》て夢に見るのは不思議である」この句から急に言文一致になっている。「よほど衰弱している証拠であろう、しかし衰弱せんでもあの女の夢なら見るかも知れん。旅順へ来てからこれで三度見た」
 余は日記をぴしゃりと敲《たた》いてこれだ! と叫んだ。御母《おっか》さんが嫁々と口癖のように云うのは無理はない。これを読んでいるからだ。それを知らずに我儘《わがまま》だの残酷だのと心中で評したのは、こっちが悪《わ》るいのだ。なるほどこんな女がいるなら、親の身として一日でも添わしてやりたいだろう。御母さんが嫁がいたらいたらと云うのを今まで誤解して全く自分の淋しいのをまぎらすためとばかり解釈していたのは余の眼識の足らなかったところだ。あれは自分の我儘で云う言葉ではない。可愛い息子を戦死する前に、半月でも思い通りにさせてやりたかったと云う謎《なぞ》なのだ。なるほど男は呑気《のんき》なものだ。しかし知らん事なら仕方がない。それは先《ま》ずよしとして元来|寂光院《じゃっこういん》がこの女なのか、あるいはあれは全く別物で、浩さんの郵便局で逢ったと云うのはほかの女なのか、これが疑問である。この疑問はまだ断定出来ない。これだけの材料でそう早く結論に高飛びはやりかねる。やりかねるが少しは想像を容《い》れる余地もなくては、すべての判断はやれるものではない。浩さんが郵便局であの女に逢ったとする。郵便局へ遊びに行く訳はないから、切手を買うか、為替《かわせ》を出すか取るかしたに相違ない。浩さんが切手を手紙へ貼《は》る時に傍《そば》にいたあの女が、どう云う拍子《ひょうし》かで差出人の宿所姓名を見ないとは限らない。あの女が浩さんの宿所姓名をその時に覚え込んだとして、これに小説的分子を五|分《ぶ》ばかり加味すれば寂光院事件は全く起らんとも云えぬ。女の方はそれで解《かい》せたとして浩さんの方が不思議だ。どうしてちょっと逢ったものをそう何度も夢に見るかしらん。どうも今少したしかな土台が欲しいがとなお読んで行くと、こんな事が書いてある。「近世の軍略において、攻城は至難なるものの一として数えらる。我が攻囲軍の死傷多きは怪しむに足らず。この二三ヶ月間に余が知れる将校の城下に斃《たお》れたる者は枚挙《まいきょ》に遑《いとま》あらず。死は早晩余を襲い来らん。余は日夜に両軍の砲撃を聞きて、今か今かと順番の至るを待つ」なるほど死を決していたものと見える。十一月二十五日の条にはこうある。「余の運命もいよいよ明日に逼《せま》った」今度は言文一致である。「軍人が軍《いく》さで死ぬのは当然の事である。死ぬのは名誉である。ある点から云えば生きて本国に帰るのは死ぬべきところを死に損《そく》なったようなものだ」戦死の当日の所を見ると「今日限りの命だ。二竜山を崩《くず》す大砲の声がしきりに響く。死んだらあの音も聞えぬだろう。耳は聞えなくなっても、誰か来て墓参りをしてくれるだろう。そうして白い小さい菊でもあげてくれるだろう。寂光院は閑静な所だ」とある。その次に「強い風だ。いよいよこれから死にに行く。丸《たま》に中《あた》って仆《たお》れるまで旗を振って進むつもりだ。御母《おっか》さんは、寒いだろう」日記はここで、ぶつりと切れている。切れているはずだ。
 余はぞっとして日記を閉じたが、いよいよあの女の事が気に懸《かか》ってたまらない。あの車は白山の方へ向いて馳《か》けて行ったから、何でも白山方面のものに相違ない。白山方面とすれば本郷の郵便局へ来んとも限らん。しかし白山だって広い。名前も分らんものを探《たず》ねて歩いたって、そう急に知れる訳がない。とにかく今夜の間に合うような簡略な問題ではない。仕方がないから晩食《ばんめし》を済ましてその晩はそれぎり寝る事にした。実は書物を読んでも何が書いてあるか茫々《ぼうぼう》として海に対するような感があるから、やむをえず床へ這入《はい》ったのだが、さて夜具の中でも思う通りにはならんもので、終夜安眠が出来なかった。
 翌日学校へ出て平常の通り講義はしたが、例の事
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