でちょっと見ると紙入のような体裁である。朝夕|内《うち》がくしに入れたものと見えて茶色の所が黒ずんで、手垢《てあか》でぴかぴか光っている。無言のまま日記を受取って中を見《み》ようとすると表の戸がからからと開《あ》いて、頼みますと云う声がする。生憎《あいにく》来客だ。御母さんは手真似《てまね》で早く隠せと云うから、余は手帳を内懐《うちぶところ》に入れて「宅へ帰ってもいいですか」と聞いた。御母さんは玄関の方を見ながら「どうぞ」と答える。やがて下女が何とかさまが入《い》らっしゃいましたと注進にくる。何とかさまに用はない。日記さえあれば大丈夫早く帰って読まなくってはならない。それではと挨拶をして久堅町《ひさかたまち》の往来《おうらい》へ出る。
 伝通院《でんずういん》の裏を抜けて表町の坂を下《お》りながら路々考えた。どうしても小説だ。ただ小説に近いだけ何だか不自然である。しかしこれから事件の真相を究《きわ》めて、全体の成行が明瞭《めいりょう》になりさえすればこの不自然も自《おの》ずと消滅する訳だ。とにかく面白い。是非探索――探索と云うと何だか不愉快だ――探究として置こう。是非探究して見なければならん。それにしても昨日《きのう》あの女のあとを付けなかったのは残念だ。もし向後《こうご》あの女に逢う事が出来ないとするとこの事件は判然《はんぜん》と分りそうにもない。入《い》らぬ遠慮をして流星光底《りゅうせいこうてい》じゃないが逃がしたのは惜しい事だ。元来品位を重んじ過ぎたり、あまり高尚にすると、得《え》てこんな事になるものだ。人間はどこかに泥棒的分子がないと成功はしない。紳士も結構には相違ないが、紳士の体面を傷《きずつ》けざる範囲内において泥棒根性を発揮せんとせっかくの紳士が紳士として通用しなくなる。泥棒気のない純粋の紳士は大抵行き倒れになるそうだ。よしこれからはもう少し下品になってやろう。とくだらぬ事を考えながら柳町の橋の上まで来ると、水道橋の方から一|輌《りょう》の人力車が勇ましく白山《はくさん》の方へ馳《か》け抜ける。車が自分の前を通り過ぎる時間は何秒と云うわずかの間《あいだ》であるから、余が冥想《めいそう》の眼をふとあげて車の上を見た時は、乗っている客はすでに眼界から消えかかっていた。がその人の顔は? ああ寂光院だと気が着いた頃はもう五六間先へ行っている。ここだ下品になるのはここだ。何でも構わんから追い懸けろと、下駄の歯をそちらに向けたが、徒歩で車のあとを追い懸けるのは余り下品すぎる。気狂《きちがい》でなくってはそんな馬鹿な事をするものはない。車、車、車はおらんかなと四方を見廻したが生憎《あいにく》一輌もおらん。そのうちに寂光院は姿も見えないくらい遥《はる》かあなたに馳け抜ける。もう駄目だ。気狂と思われるまで下品にならなければ世の中は成功せんものかなと惘然《ぼうぜん》として西片町へ帰って来た。
 とりあえず、書斎に立て籠《こも》って懐中から例の手帳を出したが、何分|夕景《ゆうけい》ではっきりせん。実は途上でもあちこちと拾い読みに読んで来たのだが、鉛筆でなぐりがきに書いたものだから明るい所でも容易に分らない。ランプを点《つ》ける。下女が御飯はと云って来たから、めしは後《あと》で食うと追い返す。さて一|頁《ページ》から順々に見て行くと皆陣中の出来事のみである。しかも倥偬《こうそう》の際に分陰《ふんいん》を偸《ぬす》んで記しつけたものと見えて大概の事は一句二句で弁じている。「風、坑道内にて食事。握り飯二個。泥まぶれ」と云うのがある。「夜来|風邪《ふうじゃ》の気味、発熱。診察を受けず、例のごとく勤務」と云うのがある。「テント外の歩哨《ほしょう》散弾に中《あた》る。テントに仆《たお》れかかる。血痕《けっこん》を印す」「五時大突撃。中隊全滅、不成功に終る。残念※[#感嘆符三つ、231−5]」残念の下に!が三本引いてある。無論記憶を助けるための手控《てびかえ》であるから、毫《ごう》も文章らしいところはない。字句を修飾したり、彫琢《ちょうたく》したりした痕跡は薬にしたくも見当らぬ。しかしそれが非常に面白い。ただありのままをありのままに写しているところが大《おおい》に気に入った。ことに俗人の使用する壮士的口吻がないのが嬉しい。怒気天を衝《つ》くだの、暴慢なる露人だの、醜虜《しゅうりょ》の胆《たん》を寒からしむだの、すべてえらそうで安っぽい辞句はどこにも使ってない。文体ははなはだ気に入った、さすがに浩さんだと感心したが、肝心《かんじん》の寂光院事件はまだ出て来ない。だんだん読んで行くうちに四行ばかり書いて上から棒を引いて消した所が出て来た。こんな所が怪しいものだ。これを読みこなさなければ気が済まん。手帳をランプのホヤに押しつけて透《す》かして見る。二行目
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