かったのみならず、落葉の中に振り返る姿を眺めた瞬間において、かえって一層の深きを加えた。古伽藍《ふるがらん》と剥《は》げた額、化銀杏《ばけいちょう》と動かぬ松、錯落《さくらく》と列《なら》ぶ石塔――死したる人の名を彫《きざ》む死したる石塔と、花のような佳人とが融和して一団の気と流れて円熟|無礙《むげ》の一種の感動を余の神経に伝えたのである。
こんな無理を聞かせられる読者は定めて承知すまい。これは文士の嘘言《きょげん》だと笑う者さえあろう。しかし事実はうそでも事実である。文士だろうが不文士だろうが書いた事は書いた通り懸価《かけね》のないところをかいたのである。もし文士がわるければ断《ことわ》って置く。余は文士ではない、西片町《にしかたまち》に住む学者だ。もし疑うならこの問題をとって学者的に説明してやろう。読者は沙翁《さおう》の悲劇マクベスを知っているだろう。マクベス夫婦が共謀して主君のダンカンを寝室の中で殺す。殺してしまうや否《いな》や門の戸を続け様《ざま》に敲《たた》くものがある。すると門番が敲くは敲くはと云いながら出て来て酔漢の管《くだ》を捲《ま》くようなたわいもない事を呂律《ろれつ》の廻らぬ調子で述べ立てる。これが対照だ。対照も対照も一通りの対照ではない。人殺しの傍《わき》で都々逸《どどいつ》を歌うくらいの対照だ。ところが妙な事はこの滑稽《こっけい》を挿《はさ》んだために今までの凄愴《せいそう》たる光景が多少|和《やわ》らげられて、ここに至って一段とくつろぎがついた感じもなければ、また滑稽が事件の排列の具合から平生より一倍のおかしみを与えると云う訳でもない。それでは何らの功果《こうか》もないかと云うと大変ある。劇全体を通じての物凄《ものすご》さ、怖《おそろ》しさはこの一段の諧謔《かいぎゃく》のために白熱度に引き上げらるるのである。なお拡大して云えばこの場合においては諧謔その物が畏怖《いふ》である。恐懼《きょうく》である、悚然《しょうぜん》として粟《あわ》を肌《はだえ》に吹く要素になる。その訳を云えば先《ま》ずこうだ。
吾人が事物に対する観察点が従来の経験で支配せらるるのは言《げん》を待たずして明瞭な事実である。経験の勢力は度数と、単独な場合に受けた感動の量に因《よ》って高下増減するのも争われぬ事実であろう。絹布団《きぬぶとん》に生れ落ちて御意《ぎょい》だ仰せだと持ち上げられる経験がたび重《かさ》なると人間は余に頭を下げるために生れたのじゃなと御意《ぎょい》遊ばすようになる。金で酒を買い、金で妾《めかけ》を買い、金で邸宅、朋友《ほうゆう》、従五位《じゅごい》まで買った連中《れんじゅう》は金さえあれば何でも出来るさと金庫を横目に睨《にら》んで高《たか》を括《くく》った鼻先を虚空《こくう》遥《はる》かに反《そ》り返《か》えす。一度の経験でも御多分《ごたぶん》には洩《も》れん。箔屋町《はくやちょう》の大火事に身代《しんだい》を潰《つぶ》した旦那は板橋の一つ半でも蒼《あお》くなるかも知れない。濃尾《のうび》の震災に瓦《かわら》の中から掘り出された生《い》き仏《ぼとけ》はドンが鳴っても念仏を唱《とな》えるだろう。正直な者が生涯《しょうがい》に一|返《ぺん》万引を働いても疑《うたがい》を掛ける知人もないし、冗談《じょうだん》を商売にする男が十年に半日|真面目《まじめ》な事件を担《かつ》ぎ込んでも誰も相手にするものはない。つまるところ吾々の観察点と云うものは従来の惰性で解決せられるのである。吾々の生活は千差万別であるから、吾々の惰性も商売により職業により、年齢により、気質により、両性によりて各《おのおの》異なるであろう。がその通り。劇を見るときにも小説を読むときにも全篇を通じた調子があって、この調子が読者、観客の心に反応するとやはり一種の惰性になる。もしこの惰性を構成する分子が猛烈であればあるほど、惰性その物も牢《ろう》として動かすべからず抜くべからざる傾向を生ずるにきまっている。マクベスは妖婆《ようば》、毒婦、兇漢《きょうかん》の行為動作を刻意《こくい》に描写した悲劇である。読んで冒頭より門番の滑稽《こっけい》に至って冥々《めいめい》の際読者の心に生ずる唯一の惰性は怖[#「怖」に傍点]と云う一字に帰着してしまう。過去がすでに怖《ふ》である、未来もまた怖なるべしとの予期は、自然と己《おの》れを放射して次に出現すべきいかなる出来事をもこの怖[#「怖」に傍点]に関連して解釈しようと試みるのは当然の事と云わねばならぬ。船に酔ったものが陸《おか》に上《あが》った後《あと》までも大地を動くものと思い、臆病に生れついた雀《すずめ》が案山子《かがし》を例の爺《じい》さんかと疑うごとく、マクベスを読む者もまた怖[#「怖」に傍点]の一字をどこまでも引張
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