って、怖[#「怖」に傍点]を冠すべからざる辺《へん》にまで持って行こうと力《つと》むるは怪しむに足らぬ。何事をも怖[#「怖」に傍点]化《か》せんとあせる矢先に現わるる門番の狂言は、普通の狂言|諧謔《かいぎゃく》とは受け取れまい。
 世間には諷語《ふうご》と云うがある。諷語は皆|表裏《ひょうり》二面の意義を有している。先生を馬鹿の別号に用い、大将を匹夫《ひっぷ》の渾名《あだな》に使うのは誰も心得ていよう。この筆法で行くと人に謙遜《けんそん》するのはますます人を愚《ぐ》にした待遇法で、他を称揚するのは熾《さかん》に他を罵倒《ばとう》した事になる。表面の意味が強ければ強いほど、裏側の含蓄もようやく深くなる。御辞儀《おじぎ》一つで人を愚弄《ぐろう》するよりは、履物《はきもの》を揃《そろ》えて人を揶揄《やゆ》する方が深刻ではないか。この心理を一歩開拓して考えて見る。吾々が使用する大抵の命題は反対の意味に解釈が出来る事となろう。さあどっちの意味にしたものだろうと云うときに例の惰性が出て苦もなく判断してくれる。滑稽の解釈においてもその通りと思う。滑稽の裏には真面目《まじめ》がくっついている。大笑《たいしょう》の奥には熱涙が潜《ひそ》んでいる。雑談《じょうだん》の底には啾々《しゅうしゅう》たる鬼哭《きこく》が聞える。とすれば怖[#「怖」に傍点]と云う惰性を養成した眼をもって門番の諧謔を読む者は、その諧謔を正面から解釈したものであろうか、裏側から観察したものであろうか。裏面から観察するとすれば酔漢の妄語《もうご》のうちに身の毛もよだつほどの畏懼《いく》の念はあるはずだ。元来|諷語《ふうご》は正語《せいご》よりも皮肉なるだけ正語よりも深刻で猛烈なものである。虫さえ厭《いと》う美人の根性《こんじょう》を透見《とうけん》して、毒蛇の化身《けしん》すなわちこれ天女《てんにょ》なりと判断し得たる刹那《せつな》に、その罪悪は同程度の他の罪悪よりも一層|怖《おそ》るべき感じを引き起す。全く人間の諷語であるからだ。白昼の化物《ばけもの》の方が定石《じょうせき》の幽霊よりも或る場合には恐ろしい。諷語であるからだ。廃寺に一夜《いちや》をあかした時、庭前の一本杉の下でカッポレを躍《おど》るものがあったらこのカッポレは非常に物凄《ものすご》かろう。これも一種の諷語《ふうご》であるからだ。マクベスの門番は山寺のカッポレと全然同格である。マクベスの門番が解けたら寂光院《じゃっこういん》の美人も解けるはずだ。
 百花の王をもって許す牡丹《ぼたん》さえ崩《くず》れるときは、富貴の色もただ好事家《こうずか》の憐れを買うに足らぬほど脆《もろ》いものだ。美人薄命と云う諺《ことわざ》もあるくらいだからこの女の寿命も容易に保険はつけられない。しかし妙齢の娘は概して活気に充《み》ちている。前途の希望に照らされて、見るからに陽気な心持のするものだ。のみならず友染《ゆうぜん》とか、繻珍《しゅちん》とか、ぱっとした色気のものに包まっているから、横から見ても縦から見ても派出《はで》である立派である、春景色《はるげしき》である。その一人が――最も美くしきその一人が寂光院の墓場の中に立った。浮かない、古臭い、沈静な四顧の景物の中に立った。するとその愛らしき眼、そのはなやかな袖《そで》が忽然《こつぜん》と本来の面目を変じて蕭条《しょうじょう》たる周囲に流れ込んで、境内寂寞《けいだいじゃくまく》の感を一層深からしめた。天下に墓ほど落ついたものはない。しかしこの女が墓の前に延び上がった時は墓よりも落ちついていた。銀杏《いちょう》の黄葉《こうよう》は淋《さみ》しい。まして化《ば》けるとあるからなお淋《さみ》しい。しかしこの女が化銀杏《ばけいちょう》の下に横顔を向けて佇《たたず》んだときは、銀杏の精が幹から抜け出したと思われるくらい淋しかった。上野の音楽会でなければ釣り合わぬ服装をして、帝国ホテルの夜会にでも招待されそうなこの女が、なぜかくのごとく四辺の光景と映帯《えいたい》して索寞《さくばく》の観を添えるのか。これも諷語《ふうご》だからだ。マクベスの門番が怖《おそろ》しければ寂光院のこの女も淋しくなくてはならん。
 御墓を見ると花筒に菊がさしてある。垣根に咲く豆菊の色は白いものばかりである。これも今の女のせいに相違ない。家《うち》から折って来たものか、途中で買って来たものか分らん。もしや名刺でも括《くく》りつけてはないかと葉裏まで覗《のぞ》いて見たが何もない。全体何物だろう。余は高等学校時代から浩さんとは親しい付き合いの一人であった。うちへはよく泊りに行って浩さんの親類は大抵知っている。しかし指を折ってあれこれと順々に勘定して見ても、こんな女は思い出せない。すると他人か知らん。浩さんは人好きのする性質で、交
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