地に活を求むと云う兵法もあると云う話しだからこれは勢よく前進するにしくはない。墓場へ墓詣りをしに来たのだから別に不思議はあるまい。ただ躊躇《ちゅうちょ》するから怪しまれるのだ。と決心して例のステッキを取り直して、つかつかと女の方にあるき出した。すると女も俯向《うつむ》いたまま歩を移して石段の下で逃げるように余の袖《そで》の傍《そば》を擦《す》りぬける。ヘリオトロープらしい香《かお》りがぷんとする。香が高いので、小春日に照りつけられた袷羽織《あわせばおり》の背中《せなか》からしみ込んだような気がした。女が通り過ぎたあとは、やっと安心して何だか我に帰った風に落ちついたので、元来何者だろうとまた振り向いて見る。すると運悪くまた眼と眼が行き合った。こんどは余は石段の上に立ってステッキを突いている。女は化銀杏《ばけいちょう》の下で、行きかけた体《たい》を斜《なな》めに捩《ねじ》ってこっちを見上げている。銀杏は風なきになおひらひらと女の髪の上、袖《そで》の上、帯の上へ舞いさがる。時刻は一時か一時半頃である。ちょうど去年の冬浩さんが大風の中を旗を持って散兵壕から飛び出した時である。空は研《と》ぎ上げた剣《つるぎ》を懸《か》けつらねたごとく澄んでいる。秋の空の冬に変る間際《まぎわ》ほど高く見える事はない。羅《うすもの》に似た雲の、微《かす》かに飛ぶ影も眸《ひとみ》の裡《うち》には落ちぬ。羽根があって飛び登ればどこまでも飛び登れるに相違ない。しかしどこまで昇っても昇り尽せはしまいと思われるのがこの空である。無限と云う感じはこんな空を望んだ時に最もよく起る。この無限に遠く、無限に遐《はる》かに、無限に静かな空を会釈《えしゃく》もなく裂いて、化銀杏が黄金《こがね》の雲を凝《こ》らしている。その隣には寂光院の屋根瓦《やねがわら》が同じくこの蒼穹《そうきゅう》の一部を横に劃《かく》して、何十万枚重なったものか黒々と鱗《うろこ》のごとく、暖かき日影を射返している。――古き空、古き銀杏、古き伽藍《がらん》と古き墳墓が寂寞《じゃくまく》として存在する間に、美くしい若い女が立っている。非常な対照である。竹藪を後《うし》ろに背負《しょ》って立った時はただ顔の白いのとハンケチの白いのばかり目に着いたが、今度はすらりと着こなした衣《きぬ》の色と、その衣を真中から輪に截《き》った帯の色がいちじるしく目立つ。縞柄《しまがら》だの品物などは余のような無風流漢には残念ながら記述出来んが、色合だけはたしかに華《はな》やかな者だ。こんな物寂《ものさ》びた境内《けいだい》に一分たりともいるべき性質のものでない。いるとすればどこからか戸迷《とまどい》をして紛《まぎ》れ込んで来たに相違ない。三越陳列場の断片を切り抜いて落柿舎《らくししゃ》の物干竿《ものほしざお》へかけたようなものだ。対照の極とはこれであろう。――女は化銀杏の下から斜めに振り返って余が詣《まい》る墓のありかを確かめて行きたいと云う風に見えたが、生憎《あいにく》余の方でも女に不審があるので石段の上から眺《なが》め返したから、思い切って本堂の方へ曲った。銀杏はひらひらと降って、黒い地を隠す。
余は女の後姿を見送って不思議な対照だと考えた。昔《むか》し住吉の祠《やしろ》で芸者を見た事がある。その時は時雨《しぐれ》の中に立ち尽す島田姿が常よりは妍《あで》やかに余が瞳《ひとみ》を照らした。箱根の大地獄で二八余《にはちあま》りの西洋人に遇《あ》った事がある。その折は十丈も煮え騰《あが》る湯煙りの凄《すさま》じき光景が、しばらくは和《やわ》らいで安慰の念を余が頭に与えた。すべての対照は大抵この二つの結果よりほかには何も生ぜぬ者である。在来の鋭どき感じを削《けず》って鈍くするか、または新たに視界に現わるる物象を平時よりは明瞭《めいりょう》に脳裏《のうり》に印し去るか、これが普通吾人の予期する対照である。ところが今|睹《み》た対象は毫《ごう》もそんな感じを引き起さなかった。相除《そうじょ》の対照でもなければ相乗《そうじょう》の対照でもない。古い、淋《さび》しい、消極的な心の状態が減じた景色《けしき》はさらにない、と云ってこの美くしい綺羅《きら》を飾った女の容姿が、音楽会や、園遊会で逢《あ》うよりは一《ひ》と際《きわ》目立って見えたと云う訳でもない。余が寂光院《じゃっこういん》の門を潜《くぐ》って得た情緒《じょうしょ》は、浮世を歩む年齢が逆行して父母未生《ふもみしょう》以前に溯《さかのぼ》ったと思うくらい、古い、物寂《ものさ》びた、憐れの多い、捕えるほど確《しか》とした痕迹《こんせき》もなきまで、淡く消極的な情緒である。この情緒は藪《やぶ》を後《うし》ろにすっくりと立った女の上に、余の眼が注《そそ》がれた時に毫《ごう》も矛盾の感を与えな
前へ
次へ
全23ページ中12ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
夏目 漱石 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング