んだい》の上に据《す》えつけられた石塔が見える。右手の方《かた》に柵《さく》を控えたのには梅花院殿《ばいかいんでん》瘠鶴大居士《せきかくだいこじ》とあるから大方《おおかた》大名か旗本の墓だろう。中には至極《しごく》簡略で尺たらずのもある。慈雲童子と楷書《かいしょ》で彫ってある。小供だから小さい訳《わけ》だ。このほか石塔も沢山ある、戒名も飽きるほど彫りつけてあるが、申し合わせたように古いのばかりである。近頃になって人間が死ななくなった訳でもあるまい、やはり従前のごとく相応の亡者《もうじゃ》は、年々御客様となって、あの剥《は》げかかった額の下を潜《くぐ》るに違ない。しかし彼らがひとたび化銀杏の下を通り越すや否《いな》や急に古《ふ》る仏《ぼとけ》となってしまう。何も銀杏のせいと云う訳でもなかろうが、大方の檀家《だんか》は寺僧の懇請で、余り広くない墓地の空所《くうしょ》を狭《せば》めずに、先祖代々の墓の中に新仏《しんぼとけ》を祭り込むからであろう。浩さんも祭り込まれた一人《ひとり》である。
 浩さんの墓は古いと云う点においてこの古い卵塔婆《らんとうば》内でだいぶ幅の利《き》く方である。墓はいつ頃出来たものか確《しか》とは知らぬが、何でも浩さんの御父《おとっ》さんが這入り、御爺《おじい》さんも這入り、そのまた御爺さんも這入ったとあるからけっして新らしい墓とは申されない。古い代りには形勝《けいしょう》の地を占めている。隣り寺を境に一段高くなった土手の上に三坪ほどな平地《へいち》があって石段を二つ踏んで行《い》き当《あた》りの真中にあるのが、御爺さんも御父さんも浩さんも同居して眠っている河上家代々之墓である。極《きわ》めて分《わか》りやすい。化銀杏を通り越して一筋道を北へ二十間歩けばよい。余は馴れた所だから例のごとく例の路《みち》をたどって半分ほど来て、ふと何の気なしに眼をあげて自分の詣《まい》るべき墓の方を見た。
 見ると! もう来ている。誰だか分らないが後《うし》ろ向《むき》になってしきりに合掌している様子だ。はてな。誰だろう。誰だか分りようはないが、遠くから見ても男でないだけは分る。恰好《かっこう》から云ってもたしかに女だ。女なら御母《おっか》さんか知らん。余は無頓着《むとんじゃく》の性質で女の服装などはいっこう不案内だが、御母さんは大抵|黒繻子《くろじゅす》の帯をしめている。ところがこの女の帯は――後から見ると最も人の注意を惹《ひ》く、女の背中いっぱいに広がっている帯は決して黒っぽいものでもない。光彩陸離《こうさいりくり》たるやたらに奇麗《きれい》なものだ。若い女だ! と余は覚えず口の中で叫んだ。こうなると余は少々ばつがわるい。進むべきものか退《しりぞ》くべきものかちょっと留って考えて見た。女はそれとも知らないから、しゃがんだまま熱心に河上家代々の墓を礼拝している。どうも近寄りにくい。さればと云って逃げるほど悪事を働いた覚《おぼえ》はない。どうしようと迷っていると女はすっくら立ち上がった。後ろは隣りの寺の孟宗藪《もうそうやぶ》で寒いほど緑りの色が茂っている。その滴《した》たるばかり深い竹の前にすっくりと立った。背景が北側の日影で、黒い中に女の顔が浮き出したように白く映る。眼の大きな頬の緊《しま》った領《えり》の長い女である。右の手をぶらりと垂れて、指の先でハンケチの端《はじ》をつかんでいる。そのハンケチの雪のように白いのが、暗い竹の中に鮮《あざや》かに見える。顔とハンケチの清く染め抜かれたほかは、あっと思った瞬間に余の眼には何物も映らなかった。
 余がこの年《とし》になるまでに見た女の数は夥《おびただ》しいものである。往来の中、電車の上、公園の内、音楽会、劇場、縁日、随分見たと云って宜《よろ》しい。しかしこの時ほど驚ろいた事はない。この時ほど美しいと思った事はない。余は浩さんの事も忘れ、墓詣《はかまい》りに来た事も忘れ、きまりが悪《わ》るいと云う事さえ忘れて白い顔と白いハンケチばかり眺《なが》めていた。今までは人が後ろにいようとは夢にも知らなかった女も、帰ろうとして歩き出す途端に、茫然《ぼうぜん》として佇《たた》ずんでいる余の姿が眼に入《い》ったものと見えて、石段の上にちょっと立ち留まった。下から眺めた余の眼と上から見下《みおろ》す女の視線が五間を隔《へだ》てて互に行き当った時、女はすぐ下を向いた。すると飽《あ》くまで白い頬に裏から朱を溶《と》いて流したような濃い色がむらむらと煮染《にじ》み出した。見るうちにそれが顔一面に広がって耳の付根まで真赤に見えた。これは気の毒な事をした。化銀杏《ばけいちょう》の方へ逆戻りをしよう。いやそうすればかえって忍び足に後《あと》でもつけて来たように思われる。と云って茫然と見とれていてはなお失礼だ。死
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