袷羽織《あわせばおり》に綿入《わたいれ》一枚の出《い》で立《た》ちさえ軽々《かろがろ》とした快い感じを添える。先の斜《なな》めに減った杖《つえ》を振り廻しながら寂光院と大師流《だいしりゅう》に古い紺青《こんじょう》で彫りつけた額を眺《なが》めて門を這入《はい》ると、精舎《しょうじゃ》は格別なもので門内は蕭条《しょうじょう》として一塵の痕《あと》も留《と》めぬほど掃除が行き届いている。これはうれしい。肌《はだ》の細かな赤土が泥濘《ぬか》りもせず干乾《ひから》びもせず、ねっとりとして日の色を含んだ景色《けしき》ほどありがたいものはない。西片町は学者町か知らないが雅《が》な家は無論の事、落ちついた土の色さえ見られないくらい近頃は住宅が多くなった。学者がそれだけ殖《ふ》えたのか、あるいは学者がそれだけ不風流なのか、まだ研究して見ないから分らないが、こうやって広々とした境内《けいだい》へ来ると、平生は学者町で満足を表していた眼にも何となく坊主の生活が羨《うらやま》しくなる。門の左右には周囲二尺ほどな赤松が泰然として控えている。大方《おおかた》百年くらい前からかくのごとく控えているのだろう。鷹揚《おうよう》なところが頼母《たのも》しい。神無月《かんなづき》の松の落葉とか昔は称《とな》えたものだそうだが葉を振《ふる》った景色《けしき》は少しも見えない。ただ蟠《わだかま》った根が奇麗な土の中から瘤《こぶ》だらけの骨を一二寸|露《あら》わしているばかりだ。老僧か、小坊主か納所《なっしょ》かあるいは門番が凝性《こりしょう》で大方《おおかた》日に三度くらい掃《は》くのだろう。松を左右に見て半町ほど行くとつき当りが本堂で、その右が庫裏《くり》である。本堂の正面にも金泥《きんでい》の額《がく》が懸《かか》って、鳥の糞《ふん》か、紙を噛《か》んで叩《たた》きつけたのか点々と筆者の神聖を汚《け》がしている。八寸角の欅柱《けやきばしら》には、のたくった草書の聯《れん》が読めるなら読んで見ろと澄《すま》してかかっている。なるほど読めない。読めないところをもって見るとよほど名家の書いたものに違いない。ことによると王羲之《おうぎし》かも知れない。えらそうで読めない字を見ると余は必ず王羲之にしたくなる。王羲之にしないと古い妙な感じが起らない。本堂を右手に左へ廻ると墓場である。墓場の入口には化銀杏《ばけいちょう》がある。ただし化《ばけ》の字は余のつけたのではない。聞くところによるとこの界隈《かいわい》で寂光院のばけ銀杏と云えば誰も知らぬ者はないそうだ。しかし何が化《ば》けたって、こんなに高くはなりそうもない。三抱《みかかえ》もあろうと云う大木だ。例年なら今頃はとくに葉を振《ふる》って、から坊主になって、野分《のわき》のなかに唸《うな》っているのだが、今年《ことし》は全く破格な時候なので、高い枝がことごとく美しい葉をつけている。下から仰ぐと目に余る黄金《こがね》の雲が、穏《おだや》かな日光を浴びて、ところどころ鼈甲《べっこう》のように輝くからまぼしいくらい見事である。その雲の塊《かたま》りが風もないのにはらはらと落ちてくる。無論薄い葉の事だから落ちても音はしない、落ちる間もまたすこぶる長い。枝を離れて地に着くまでの間にあるいは日に向いあるいは日に背《そむ》いて色々な光を放つ。色々に変りはするものの急ぐ景色《けしき》もなく、至って豊かに、至ってしとやかに降って来る。だから見ていると落つるのではない。空中を揺曳《ようえい》して遊んでいるように思われる。閑静である。――すべてのものの動かぬのが一番閑静だと思うのは間違っている。動かない大面積の中に一点が動くから一点以外の静さが理解できる。しかもその一点が動くと云う感じを過重《かちょう》ならしめぬくらい、否《いな》その一点の動く事それ自《みずか》らが定寂《じょうじゃく》の姿を帯びて、しかも他の部分の静粛なありさまを反思《はんし》せしむるに足るほどに靡《なび》いたなら――その時が一番|閑寂《かんじゃく》の感を与える者だ。銀杏《いちょう》の葉の一陣の風なきに散る風情《ふぜい》は正にこれである。限りもない葉が朝《あした》、夕《ゆうべ》を厭《いと》わず降ってくるのだから、木の下は、黒い地の見えぬほど扇形の小さい葉で敷きつめられている。さすがの寺僧《じそう》もここまでは手が届かぬと見えて、当座は掃除の煩《はん》を避けたものか、または堆《うずた》かき落葉を興ある者と眺《なが》めて、打ち棄てて置くのか。とにかく美しい。
 しばらく化銀杏《ばけいちょう》の下に立って、上を見たり下を見たり佇《たたず》んでいたが、ようやくの事幹のもとを離れていよいよ墓地の中へ這入《はい》り込んだ。この寺は由緒《ゆいしょ》のある寺だそうでところどころに大きな蓮台《れ
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