籠《こ》めて浩さんの事を思い出す。そら晴れた、表へ出て浩さんの友達に逢《あ》う。歓迎で国旗を出す、あれが生きていたらと愚痴《ぐち》っぽくなる。洗湯《せんとう》で年頃の娘が湯を汲《く》んでくれる、あんな嫁がいたらと昔を偲《しの》ぶ。これでは生きているのが苦痛である。それも子福者であるなら一人なくなっても、あとに慰めてくれるものもある。しかし親一人子一人の家族が半分欠けたら、瓢箪《ひょうたん》の中から折れたと同じようなものでしめ括《くく》りがつかぬ。軍曹の婆さんではないが年寄りのぶら下がるものがない。御母さんは今に浩一《こういち》が帰って来たらばと、皺《しわ》だらけの指を日夜《にちや》に折り尽してぶら下がる日を待ち焦《こ》がれたのである。そのぶら下がる当人は旗を持って思い切りよく塹壕の中へ飛び込んで、今に至るまで上がって来ない。白髪《しらが》は増したかも知れぬが将軍は歓呼《かんこ》の裡《うち》に帰来《きらい》した。色は黒くなっても軍曹は得意にプラットフォームの上に飛び下りた。白髪になろうと日に焼けようと帰りさえすればぶら下がるに差《さ》し支《つか》えはない。右の腕を繃帯《ほうたい》で釣るして左の足が義足と変化しても帰りさえすれば構わん。構わんと云うのに浩さんは依然として坑《あな》から上がって来ない。これでも上がって来ないなら御母さんの方からあとを追いかけて坑の中へ飛び込むより仕方がない。
 幸い今日は閑《ひま》だから浩さんのうちへ行って、久し振りに御母さんを慰めてやろう? 慰めに行くのはいいがあすこへ行くと、行くたびに泣かれるので困る。せんだってなどは一時間半ばかり泣き続けに泣かれて、しまいには大抵な挨拶《あいさつ》はし尽して、大《おおい》に応対に窮したくらいだ。その時御母さんはせめて気立ての優しい嫁でもおりましたら、こんな時には力になりますのにとしきりに嫁々と繰り返して大に余を困らせた。それも一段落告げたからもう善《よ》かろうと御免《ごめん》蒙《こうむ》りかけると、あなたに是非見て頂くものがあると云うから、何ですと聴いたら浩一の日記ですと云う。なるほど亡友の日記は面白かろう。元来日記と云うものはその日その日の出来事を書き記《し》るすのみならず、また時々刻々《じじこっこく》の心ゆきを遠慮なく吐き出すものだから、いかに親友の手帳でも断りなしに目を通す訳には行かぬが、御母さんが承諾する――否《いな》先方から依頼する以上は無論興味のある仕事に相違ない。だから御母さんに読んでくれと云われたときは大に乗気になってそれは是非見せてちょうだいとまで云おうと思ったが、この上また日記で泣かれるような事があっては大変だ。とうてい余の手際《てぎわ》では切り抜ける訳には行かぬ。ことに時刻を限ってある人と面会の約束をした刻限も逼《せま》っているから、これは追って改めて上がって緩々《ゆるゆる》拝見を致す事に願いましょうと逃げ出したくらいである。以上の理由で訪問はちと辟易《へきえき》の体《てい》である。もっとも日記は読みたくない事もない。泣かれるのも少しなら厭《いや》とは云わない。元々木や石で出来上ったと云う訳ではないから人の不幸に対して一滴の同情くらいは優《ゆう》に表し得る男であるがいかんせん性来《しょうらい》余り口の製造に念が入《い》っておらんので応対に窮する。御母さんがまああなた聞いて下さいましと啜《すす》り上げてくると、何と受けていいか分らない。それを無理矢理に体裁《ていさい》を繕《つく》ろって半間《はんま》に調子を合せようとするとせっかくの慰藉《いしゃ》的好意が水泡と変化するのみならず、時には思いも寄らぬ結果を呈出して熱湯とまで沸騰《ふっとう》する事がある。これでは慰めに行ったのか怒らせに行ったのか先方でも了解に苦しむだろう。行きさえしなければ薬も盛らん代りに毒も進めぬ訳だから危険はない。訪問はいずれその内として、まず今日は見合せよう。
 訪問は見合せる事にしたが、昨日《きのう》の新橋事件を思い出すと、どうも浩さんの事が気に掛ってならない。何らかの手段で親友を弔《とむら》ってやらねばならん。悼亡《とうぼう》の句などは出来る柄《がら》でない。文才があれば平生の交際をそのまま記述して雑誌にでも投書するがこの筆ではそれも駄目と。何かないかな? うむあるある寺参りだ。浩さんは松樹山《しょうじゅざん》の塹壕《ざんごう》からまだ上《あが》って来ないがその紀念の遺髪は遥《はる》かの海を渡って駒込の寂光院《じゃっこういん》に埋葬された。ここへ行って御参りをしてきようと西片町《にしかたまち》の吾家《わがや》を出る。
 冬の取《と》っ付《つ》きである。小春《こはる》と云えば名前を聞いてさえ熟柿《じゅくし》のようないい心持になる。ことに今年《ことし》はいつになく暖かなので
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