めてはいかん。
「実に気の毒な事だて、御上の仰せだから内約があるの何のと申し上げても仕方がない。それで帯刀が娘に因果《いんが》を含めて、とうとう河上方を破談にしたな。両家が従来の通り向う合せでは、何かにつけて妙でないと云うので、帯刀は国詰になる、河上は江戸に残ると云う取《と》り計《はからい》をわしのおやじがやったのじゃ。河上が江戸で金を使ったのも全くそんなこんなで残念を晴らすためだろう。それでこの事がな、今だから御話しするようなものの、当時はぱっとすると両家の面目に関《かか》わると云うので、内々にして置いたから、割合に人が知らずにいる」
「その美人の顔は覚えて御出《おい》でですか」と余に取ってはすこぶる重大な質問をかけて見た。
「覚えているとも、わしもその頃は若かったからな。若い者には美人が一番よく眼につくようだて」と皺《しわ》だらけの顔を皺ばかりにしてからからと笑った。
「どんな顔ですか」
「どんなと云うて別に形容しようもない。しかし血統と云うは争われんもので、今の小野田の妹がよく似ている。――御存知はないかな、やはり大学出だが――工学博士の小野田を」
「白山《はくさん》の方にいるでしょう」ともう大丈夫と思ったから言い放って、老人の気色《けしき》を伺うと
「やはり御承知か、原町にいる。あの娘もまだ嫁に行かんようだが。――御屋敷の御姫様《おひいさま》の御相手に時々来ます」
 占めた占めたこれだけ聞けば充分だ。一から十まで余が鑑定の通りだ。こんな愉快な事はない。寂光院はこの小野田の令嬢に違ない。自分ながらかくまで機敏な才子とは今まで思わなかった。余が平生主張する趣味の遺伝[#「趣味の遺伝」に傍点]と云う理論を証拠立てるに完全な例が出て来た。ロメオがジュリエットを一目見る、そうしてこの女に相違ないと先祖の経験を数十年の後《のち》に認識する。エレーンがランスロットに始めて逢う、この男だぞと思い詰める、やはり父母未生《ふもみしょう》以前に受けた記憶と情緒《じょうしょ》が、長い時間を隔《へだ》てて脳中に再現する。二十世紀の人間は散文的である。ちょっと見てすぐ惚《ほ》れるような男女を捕えて軽薄と云う、小説だと云う、そんな馬鹿があるものかと云う。馬鹿でも何でも事実は曲げる訳には行かぬ、逆《さ》かさにする訳にもならん。不思議な現象に逢《あ》わぬ前ならとにかく、逢《お》うた後《のち》
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