学界に貢献しようと云う余に対してはやや横柄《おうへい》である。今から考えて見ると先方が横柄なのではない、こっちの気位《きぐらい》が高過ぎたから普通の応接ぶりが横柄に見えたのかも知れない。
 それから二三件世間なみの応答を済まして、いよいよ本題に入った。
「妙な事を伺いますが、もと御藩《ごはん》に河上と云うのが御座いましたろう」余は学問はするが応対の辞にはなれておらん。藩というのが普通だが先方の事だから尊敬して御藩《ごはん》と云って見た。こんな場合に何と云うものか未《いま》だに分らない。老人はちょっと笑ったようだ。
「河上――河上と云うのはあります。河上才三と云うて留守居を務《つと》めておった。その子が貢五郎と云うてやはり江戸詰で――せんだって旅順で戦死した浩一の親じゃて。――あなた浩一の御つき合いか。それはそれは。いや気の毒な事で――母はまだあるはずじゃが……」と一人で弁ずる
 河上|一家《いっけ》の事を聞くつもりなら、わざわざ麻布《あざぶ》下《くんだ》りまで出張する必要はない。河上を持ち出したのは河上対某との関係が知りたいからである。しかしこの某なるものの姓名が分らんから話しの切り出しようがない。
「その河上について何か面白い御話はないでしょうか」
 老人は妙な顔をして余を見詰めていたが、やがて重苦しく口を切った。
「河上? 河上にも今御話しする通り何人もある。どの河上の事を御尋ねか」
「どの河上でも構わんです」
「面白い事と云うて、どんな事を?」
「どんな事でも構いません。ちと材料が欲しいので」
「材料? 何になさる」厄介《やっかい》な爺さんだ。
「ちと取調べたい事がありまして」
「なある。貢五郎と云うのはだいぶ慷慨家《こうがいか》で、維新の時などはだいぶ暴《あ》ばれたものだ――或る時あなた長い刀を提《さ》げてわしの所へ議論に来て、……」
「いえ、そう云う方面でなく。もう少し家庭内に起った事柄で、面白いと今でも人が記憶しているような事件はないでしょうか」老人は黙然《もくねん》と考えている。
「貢五郎という人の親はどんな性質でしたろう」
「才三かな。これはまた至って優しい、――あなたの知っておらるる浩一に生き写しじゃ、よく似ている」
「似ていますか?」と余は思わず大きな声を出した。
「ああ、実によく似ている。それでその頃は維新には間《ま》もある事で、世の中も穏《お
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