はここだ。何でも構わんから追い懸けろと、下駄の歯をそちらに向けたが、徒歩で車のあとを追い懸けるのは余り下品すぎる。気狂《きちがい》でなくってはそんな馬鹿な事をするものはない。車、車、車はおらんかなと四方を見廻したが生憎《あいにく》一輌もおらん。そのうちに寂光院は姿も見えないくらい遥《はる》かあなたに馳け抜ける。もう駄目だ。気狂と思われるまで下品にならなければ世の中は成功せんものかなと惘然《ぼうぜん》として西片町へ帰って来た。
 とりあえず、書斎に立て籠《こも》って懐中から例の手帳を出したが、何分|夕景《ゆうけい》ではっきりせん。実は途上でもあちこちと拾い読みに読んで来たのだが、鉛筆でなぐりがきに書いたものだから明るい所でも容易に分らない。ランプを点《つ》ける。下女が御飯はと云って来たから、めしは後《あと》で食うと追い返す。さて一|頁《ページ》から順々に見て行くと皆陣中の出来事のみである。しかも倥偬《こうそう》の際に分陰《ふんいん》を偸《ぬす》んで記しつけたものと見えて大概の事は一句二句で弁じている。「風、坑道内にて食事。握り飯二個。泥まぶれ」と云うのがある。「夜来|風邪《ふうじゃ》の気味、発熱。診察を受けず、例のごとく勤務」と云うのがある。「テント外の歩哨《ほしょう》散弾に中《あた》る。テントに仆《たお》れかかる。血痕《けっこん》を印す」「五時大突撃。中隊全滅、不成功に終る。残念※[#感嘆符三つ、231−5]」残念の下に!が三本引いてある。無論記憶を助けるための手控《てびかえ》であるから、毫《ごう》も文章らしいところはない。字句を修飾したり、彫琢《ちょうたく》したりした痕跡は薬にしたくも見当らぬ。しかしそれが非常に面白い。ただありのままをありのままに写しているところが大《おおい》に気に入った。ことに俗人の使用する壮士的口吻がないのが嬉しい。怒気天を衝《つ》くだの、暴慢なる露人だの、醜虜《しゅうりょ》の胆《たん》を寒からしむだの、すべてえらそうで安っぽい辞句はどこにも使ってない。文体ははなはだ気に入った、さすがに浩さんだと感心したが、肝心《かんじん》の寂光院事件はまだ出て来ない。だんだん読んで行くうちに四行ばかり書いて上から棒を引いて消した所が出て来た。こんな所が怪しいものだ。これを読みこなさなければ気が済まん。手帳をランプのホヤに押しつけて透《す》かして見る。二行目
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